今からおよそ二万年ほど前、足立区は関東ローム層が厚く積もっていて、東京の山の手台地と千葉県市川、国府台、松戸の台地とひとつづきであった。洪積世の中ごろ、古富士山や箱根火山の火山灰がどんどん降り積もって、第13図の(イ)のように古東京湾という海が埋めつくされ、(ロ)のように関東地方は一面平らな地表面になってしまった。
洪積世の四回目の氷河時代(ヴェルム氷期といっている)がきて、地球上に寒波が襲来し、海水面が八〇メートル以上も下降し、関東平野の地域のほとんどが平らな台地で、多少今の東京湾の方向に斜面を作っていたところへ、今の荒川、入間川、利根川が平原地帯を深く浸食して流れた。今の鐘ヶ淵付近で荒川、利根川、入間川と合流し、途中で多摩川や房総地方の養老川を合して古東京川となり、現在の浦賀水道の海面下八〇メートルに深い谷を作って海に注いだ。この古東京川の谷を上流にたどると、台地の開析谷とつながっている。足立区では中川二丁目で利根川の谷の深度が五〇メートル、千住五丁目でも荒川の谷が五〇メートル、荒川の鉄橋下で入間川の谷が三五メートルあり、埼玉県では川口で荒川の谷が三〇メートル、春日部で利根川の谷が二〇メートルの深さであった。第13図の(ハ)は当時の地形を示したものである。
こうしたことはおよそ二万年から一万八千年ぐらい前のことで、ヴェルム氷期の最盛期で、当時を物語るものに第14図がある。これは帝都高速度交通営団で荒川鉄橋を施工するにあたり、荒川をボーリングしたところ、氷河時代の浸食谷が見つかった。深度三四メートルのところの深い溝のような形をしているのが、当時の河の底で、右側にある砂層は、当時すでに堆積していた洪積世時代の堅い砂層である。この砂層はN値(ボーリングによる土の硬度調査基準)が五〇以上でこれを浸食して流れていた入間川の古い谷が東京湾口まで地下深く続いている。足立区の当時の地表面はこの砂層の面で、河川の流速も相当に早かったと思われる。当時の地層の中から花粉の化石を検出して調べて見ると、寒い気候を表わす針葉樹のものが多く、モミやブナなどの花粉もたくさん見つかる。それから、しばらくうすら寒い気候が続いて、当時できた本流の谷、支流の谷に腐植物を含む粘土や砂の層が堆積した。この時代の谷は、足立区には区の南側にある入間川の谷(今の荒川第16図)、千住桜木町から千住五丁目にいたる荒川の谷、花畑町から佐野町、亀有を経て鐘ヶ淵にいたる谷とがある。これらの谷は非常に深く、中川二丁目付近では五〇メートルをこえて、地下深くに埋没されている。
いずれも利根川、荒川のきざんだヴェルム氷期ごろの浸食谷である。今一つ江北橋の付近から高野、西新井、梅島、中央本町、青井、東和の各町の地下三〇メートルから五〇メートルの深度のところに埋没谷がある。この谷は利根川、荒川の浸食したもので、足立区は今も四方に河川があるが、約二万年前にもこのように河川にかこまれていた。太平洋沿岸の大陸棚が地上に現われていた時代で、当時の海岸線は、浦賀水道以南にあって、現在の東京湾は完全に陸地で、第13図(ハ)のような地形であった。
この時代が海面降下の極大期で、文化史では無土器文化時代の末期で、おそらく尖頭器の使われた時代だと思われる。第15図・第16図は地下五〇メートルから六〇メートルにある氷河時代の河川埋没谷や沖積層の上部、中部、下部の横への連続性を断面図で表わしたものである。氷河最盛期の河川の流れる水は相当の水勢であって、洪積層の堅い砂層や礫層を浸食している。これらの谷や支谷、後背湿地に堆積した腐植土の中に植物の茎などがたくさん見られる。最近この腐植物をC14(炭素の含有量を調べて年代を測定する方法)で測定してみると、埋没谷の基底で、およそ九千八百年ほど前だということが判明した。
氷河時代を終えて、しばらくうすら寒い気候のつづいた日本列島にも、多少温度の上昇をみるようになり、極地地方の氷河がとけて、それだけ海面が上昇し、今まで谷であった低いところに海水が侵入して、これらの低地に柔らかい粘土や砂の地層ができあがった。
しかし、暖かかった時代も、そう長くは続かず、また寒くなって海水が引きはじめ、海面が低下し、今までの低地帯に河川が浸食して流れるようになった。沖積層の下部層の上にあるあまり厚くない砂層は、当時の海岸線を表わすものである。このように地球上の温度が寒くなったり、暖かくなったりしてゆく原因はまだよくわかっていない。しかしこの気候の変化によって、足立区の地下に埋もれている地形は、変化をくり返したのである。
やがて寒い気候も終り、世界的に急激な温度の上昇が、沖積層の中部層のときに起こった。よほど気候が温暖になり、海水面が上昇してきたとみえて、東京湾から押し寄せてきた海水は、当時の浸食谷をこえて、奥深く浦和近くまで侵入した。
第13図の(ニ)がその時代に海水が侵入した地形図で、奥東京湾といい、縄文時代のころである。この奥東京湾の海には、貝や、有孔虫などが住んでいた。有孔虫は海の原生動物で大きさは一ミリメートルぐらいのもので、「オペルキューリマ=アンモノワデス」、「ロタリア=パピロサ」、「ロタリア=ペッカイ」、「エボニデス=ルパンデュス」、「レフェル=ジャンヌ」、「アンフイステギナ=レッソニ」、「トリロキュリナ=トリゴニュラ」、「エレフェデム=ファクス=バルバレンス」など、八種が検出され、ことに当時の奥東京湾が内海であったことを証する内湾性の「ロタリア」種が多く発見された。したがって中部層の化石は、深度を増した内湾海底の安定した環境での堆積を示している。また化石花粉が多く、ニレ、ツガ、スギ、クルミ、マツ、イネなどが検出された。その上、貝の化石は暖流系のものを含んでいる。第17図は、この地層から検出された花粉の一部である。このように暖かい時代は、今からおよそ五千年から六千年前のことで、イネの花粉のあることから見て、先住民族がすでにイネの耕作をしていたことがわかる。
やがてまた気候の変化があって海水面の上昇が止まり、上流の河川から土砂が運びこまれ、奥東京湾もだんだん後退して、自然堤防が発達し、後背湿地が生まれて、現在にやや近い地形ができた(第6図参照)。
足立区の上部の砂層は、およそ一千年から一千五百年前の海岸砂丘、あるいは河川の堆積物である。もっとも、遅くまで海であった大谷田地区などは、五、六百年前まで入海であったと思われる。
足立区の自然も、沖積世約一万年が区の地盤生成の歴史であって、一万年の間に気候変化の寒・暖につれて、地上の姿も変化してきた。この気候の変化は地形や、生物界に変化を及ぼした。
沖積層の終りころになると、地形のところで記したように足立区でも花畑、舎人、伊興方面と、江北方面の自然堤防の微高地に、わたくしたちの祖先の生活のあとを見ることができる(第4図参照)。以来見渡すかぎり葦のしげる湿地帯であった足立区も、自然の変動に対処して人間が過去、現在にわたり自然を改良しようとする努力が続けられてきたのである。