一 江戸時代以前の人口

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 古代の戸籍制度日本歴史新書『日本の人口』(関山博士著)によれば、わが国の歴史では、崇神天皇十二年(前八五)に「校民」すなわち人口調査をしたという記録がある。さらに欽明天皇元年(五四〇)には秦・漢二氏をはじめ来朝帰化人について戸籍を設け、また同三十年と、敏達天皇三年(五七四)には、皇室直轄の屯倉(みやけ)に属する部民に対して、戸籍を作ったといわれるが詳(つまびら)かでない。いずれにしても調役の賦課もしくは異民族対策の必要からの部分的な人口調査であり、局地的な戸籍の編成で、全国的なものでなかったことはいうまでもない。全国的に戸籍が作られるようになったのは、大化改新(六四五)以後のことであり、同二年正月の改新宣言の中に「初めて戸籍(へふむだ)・計帳(かずのふむだ)・班田収授(あかちだ)の法を造れ、凡そ五十戸を里となし、里ごとに長一人を置け、戸口(へひと)を按(かんが)へ検(おさ)め、農桑を課殖(おほ)せ云々」とあることは周知のとおりである。かくて制度として初めて戸籍の作成が実行された。ついで六年を経て白雉三年(壬子)四月にも戸籍が作られ、六年ごとの班田と造籍がくり返し行なわれたが、天智天皇庚午(六七〇)に『庚午年籍』が作られ、長く後年の基範とされた。

 戸令によればその規定ははなはだ詳密で、戸籍は十一月上旬から翌年五月末日までに調査し、里ごとに一巻として三通を作成し、二通を太政官に納め、一通は各国衙(が)にとどめた。記載の項目は、戸主、家族、同居者の姓名、年齢、身分、戸主との続柄はもちろん、正丁(二十~六十歳男女)中丁(十六~二十歳男女)課口(正中丁および六十一~六十五歳の老男女)不課口(十五歳以下および六十六歳以上)に分け、このほか廃疾の有無、顔かたち、黒あざの所在なども記入するという詳細をきわめたものであった。また戸籍とならび称される計帳は、毎年つくられるもので、これは前年度中に起きた戸籍の移動(動態)、および調庸の賦課額を戸ごとに集計して記載した。このような戸籍の作成は、班田収授や租庸調の賦課軍役徴発などの必要性からであるが、それにしてもこのように詳細をきわめたのは、人民の氏姓を正して、身分の紛乱をさけるとともに、農奴や奴隷(どれい)をその主人と郷里にしばりつけて、浮浪者や逃亡者を防ぐことを目的とし、まったく奴隷制度を基盤とした古代貴族国家の必要性に応じたものであった。

 このように完備した戸籍制度が実施されていたのなら、早くから全国人口も国別人口も知ることができるわけであるが、このことは技術的にも、経費の点からも困難であった。重要施行目的であった班田収授の制度自体が、国有地の欠乏その他の理由から実行不可能におちいり、戸籍を作ることも半ば意味を失ってきた。

 大化二年から寛弘元年(一〇〇四)まで三百六十年間は、とぎれながらも、また全国的とはいえないまでも、どうやら作られた形跡があるが、中央における古代国家権力が衰えて、土地国有制限もゆるみ、その反面として、荘園制度を中心とする新しい社会経済機構へのうつり変わりとともに、いつか制度もくずれ、その跡を絶ってしまった。また実際に調成された戸籍にしても、それが租庸調の賦課や、軍役徴発の基調となった関係上、年齢や性別をいつわるなど、不実の記載をするものが多く、結局あてにならぬものとなってしまった。たとえば、ある戸は一男十女とし、ある家は男が一人もいないとなっている。そのわけは配給田を欲張り、課役を免れようとするためで、このため一国の不課口は現丁の十倍にも達した。このようなしだいで戸籍制度はくずれ去り、よるべき資料はなくなって、平安時代以後ほとんど一千年の長い間、わが国の人口史は空白時代を続けたのである。

 戦国争乱の時代になって、群雄によって各領内の人口調査が行なわれたが、ことに豊臣秀吉が有名な「人掃(ひとはらい)令」を発して、戸口調査を命じてからは、その例も乏しくない。この結果戸籍類似のものが作られたであろうが、今日ほとんど残っていない。