人口という言葉は江戸時代になって、たまに使われているが、徳川以前にはほとんど使われていない。徳川時代以前、人口や、人口調査という語句や、それに似た内容を表わすのに、「戸口」、「民口」、調査には「校民」、「検戸」という語句が残っている。
徳川時代には一般に「人別」、「人別改」、「人別調」というのが普通であった。また「宗門改」というのが、「人別改」と同意語のように使用され、やがて「宗門人別改」の内容を採るようになったが、元来「人別改」と「宗門改」とは別個の観念であって、制度自体もまた別個に起源をもつものである。両制度がいずれも住民の一人ひとりについて、その身分、家族関係および性別、年齢等を調査するものであった関係上、両者はしぜん代用され、混同されるようになった。「宗門改」が、初期の単に転教者やその類族の改めに限られた時代、あるいは簿冊が個々人の寺請状を綴じこむにとどまったような時代は、各個人について家族関係、年齢その他を厳密に調査する必要はなかった。しかし「宗門改」を全国民に対して徹底的に行なうことになってからは、結局その前提として厳密な「人別改」を実行しなければならなくなった。すなわち「宗門改」は実質上「宗門人別改」とならざるをえないのであって、その帳簿もまた『宗門人別改帳』と化すにいたった。寛文十一年(一六七一)の左の布令は「宗門改」が「人別改」を兼ねる「宗門人別改」となったことを示すものである。
「其方代官所耶蘇宗門改の儀、念を入れらるる御由に候え共、弥油断なく申付けらるべく候。向後は百姓一軒づつ人別帳に之を記し、一村切に男女の人数寄を致し、又一郡切に成とも都合をしめ、自今已後懈怠なく申付けられ、帳を作り手前に差し置かれ(中略)、御代官の男女他所へ縁付き、並奉公に之をやるは勿論、仮令死去減候分、他所より来候者之ありて増之分、差別相違なく、男女年齢をも銘々書印(しろし)候様に尤に候。宗門改計(ばかり)に限らず、諸事吟味をなされ然るべき事に候間、其意を得らるべく候」
調査の方法も、現在の国勢調査のように、あらかじめ調査票を配布して、ある一定日時(たとえば十月一日午前零時のような)現況を記入させ、その調査票を中央に集めて、整理し集計するというやり方ではない。古代の「校民」や中世の「人別改」がどんな方法でされたか、不明とされているが、必要に応じて臨時的に人口調査を行なう場合は、普通役人が民家を歴訪して、いちいち人頭をしらべるという方法がとられたであろう。それが本当の「校民」であり、「検戸」であり、「人別改」であった。しかし徳川時代にはいってからは、村ごとに一定の方式のもとに戸籍簿(人別帳あるいは宗門人別帳)ができており、それにしたがって人頭を改めるとともに、それによって一村の人口、ひいては一藩・一国の人口を集計することができた。