かくて徳川時代享保六年から弘化三年(一八四六)まで百二十五年間に二十二回人口調査が行なわれたが、その内十八回の記録が残されている。
この結果は、そのつど将軍や閣老へ上呈されるだけで、一般に公表されたのではないが、その整理集計にあたった勘定所ではその副本や、資料類が保存されたのは当然であり、それらに基づいて現代の学者が作成したものである。なお享保年間から弘化年間に至る人口の増減を見ると、ほとんど変化がなく、むしろ減少した年度が目だつ。その大きな原因は、享保十七年、天明、天保の三大飢饉(ききん)と明和年度のそれらに匹敵する凶作飢饉、その他疫(えき)病の流行による人命の損失や、それらに起因した極端な出産率の低下であるという。
| 年次 | 人口 | 指数 | 1年間平均 增(減)数 |
増加率 (%) |
|---|---|---|---|---|
| 享保6年(1721) | 26,065,425 | 100 | 一人 | ― |
| 〃 11年(1726) | 26,548,998 | 101.8 | 96,715 | 3.7 |
| 〃17年(1732) | 26,921,816 | 103.3 | 62,132 | 2.3 |
| 元文3年(1738) | ― | ― | ― | ― |
| 延享元年(1744) | 26,153,450 | 100.3 | 減64,030 | 減2.4 |
| 寛延 3年(1750) | 25,917,830 | 99.4 | 減39,270 | 減1.5 |
| 宝暦6年(1756) | 26,070,712 | 100.1 | 25,460 | 0.9 |
| 〃 12年(1762) | 25,921,458 | 99.4 | 減24, 876 | 減0.9 |
| 明和5年(1768) | 26,252,057 | 100.7 | 55,095 | 2.1 |
| 安永 3年(1774) | 25,990,451 | 99.7 | 減43,601 | 減1.7 |
| 〃 9年(1780) | 26,010,600 | 99.8 | 3,358 | 0.1 |
| 天明 6年(1786) | 25,086,466 | 96.2 | 減154,024 | 減5.9 |
| 寛政4年(1792) | 24,891,441 | 95.5 | 減32,504 | 減1.3 |
| 〃10年(1798) | 25,471,033 | 97.7 | 96599 | 3.9 |
| 文化元年(1804) | 25,621,957 | 98.3 | 25154 | 1.0 |
| 〃 7年(1810) | ― | ― | ― | ― |
| 〃13年(1816) | ― | ― | ― | ― |
| 文政5年(1822) | 26,602,110 | 102.1 | 54453 | 2.1 |
| 〃11年(1828) | 27,201,400 | 104.4 | 99881 | 3.8 |
| 天保 5年(1834) | 27,063,907 | 103.8 | 減22,915 | 減 0.8 |
| 〃11年(1840) | ― | ― | ― | ― |
| 弘化 3年(1846) | 26,907,625 | 103.2 | 減13,023 | 減 0.5 |
| 嘉永5年(1852) | ― | ― | ― | ― |
| 安政5年(1858) | ― | ― | ― | ― |
| 元治元年(1864) | ― | ― | ― | ― |
備考 前表のとおり、享保から弘化にいたる日本の人口の動向の大略を知りえたが、実はこの人数の中には、
1 武士とその家来(又者)(またもの) 2 当歳(地方によって年齢がまちまちであるが)の乳幼児 3 無籍者などが省かれており、その数をおよそ五百万人と推定している。したがって前表人口に五百万人を加えたものが、その時代の日本人総人口となるわけである。
この調査も順当に継続されたとすれば、嘉永五年(一八五二)、安政五年(一八五八)、元治元年(一八六四)、次は明治三年(一八七〇)に行なわれるはずであったが、幕末、明治維新と、内外多端なおりとて中止された。
明治四年戸籍法が公布され、「戸籍人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最モ先シ重ズル所ナリ云々」と人口の正確な把握に意を用いたことが知られ、やがて現在の国勢調査のような精細かつ正確なものになったのである。
江戸時代の人口については、前掲表に示すように全国的なものはあるが、各地方別人口とか、都市人口などの分の記録はなく、あってもいずれも推定によるものである。たとえば江戸の人口を百万から百五十万というのも、町民五十二万から五十三万に対して、旗本・御家人およびその家族、家来、使用人が常住しており、また諸大名は大小格式に応じ、大は千人を越え、小でも数百人にのぼる多数の家臣および妻子を常住せしめていた。またこれに従属する仲間、小者その他男女雑役使用人が多数に上った。一方浪人や無籍者も加えると、町人と同数位となると推定されて算出した人口である。