武蔵野台地は、洪積期のいわゆる敷島隆起時代に、多摩川の隆起扇状地として生成したものと考えられ、この洪積層台地の下部は扇状地であるから、西部では砂礫層(しゃれきそう)が発達し、東部に海成砂層が分布している。そして、その上部には三メートルないし十数メートルにおよぶ陸成のローム層が堆積し、これが台地を形成している。さらに荒川と多摩川とが谷を開析して、おのおの広い氾濫(はんらん)原を作った結果、台地と沖積低地とが画然とし、同時に台地の崖端(がけはし)を浸食して多くの溪谷を作り、のち一時陸地が沈降したために、それらの溪谷に海水が侵入して複雑な海岸線を呈し、いわゆる溺谷(おぼれだに)の状態を現出した。このころから武蔵野に人間の住んだ形跡が認められる。しかし、戦後になって、関東ローム層あるいはこれに対比されるローム質層から、岩宿文化をはじめとしてこれに類する「石器文化」の存在が確認され、縄文時代以前の文化「無土器文化」の遺跡が武蔵野にも十四か所発見されているので、武蔵野の人類の生息はいままで考えられていた時代よりさらにさかのぼるものと考えられる。
また、関東南部では、この海水侵入の湾頭が、現在の東京湾から数十キロはなれた奥地にあった。そして、沈降したその土地は、再び隆起運動を開始し、局部的には多少の変化があったようであるが、その後この地殻運動がひきつづいて行なわれ、海水はしだいに後退した。とくに河川の注ぐ湾頭では、堆積作用が加わったため、汀線(ていせん)は年とともに後退し、しだいに現在の汀線に近づいていったのである。貝塚の分布を見ると現在の海岸線からはるかに離れた場所にたくさんあるのはこのためで、それらの遺跡から出土する貝が淡水産のものであるか、鹹(かん)水産のものであるか、また、貝塚出土の土器の新旧を調べることによって、その当時の海岸線の問題を解くことができる。こうしたことから東京湾は、新石器時代にはもっと北の方まではいっていたことがだんだん明らかになってきた。また、当時の気候は今日と大差なく、あるいは今日より幾分温暖であったようで、植物もよく繁茂し、台地は欝蒼(うっそう)とした森林に覆われ、谷沿いのところどころには複雑な地形や風当りなどに影響されて、疎林または草地が点在したと推測される。
人類の生息状態について調べてみると、縄文式前期の初期のものについては、開析谷に沿って遺跡が点在し、崖端に遠い台地の内部には見い出されていない。これはおそらく当時の集落が生水(なまみず)の得やすい場所に営まれていたことを示すもので、このような現象は縄文式時代の各時代についても見られ、人間の生活と水との関係の深さをよく示している。前期後半になると、人びとは台地の諸溪谷にかなり深く侵入してきた浅い海に出て、魚介を漁(あさ)って食料とし、貝塚をのこすようになったものであり、また貝塚の分布状態から、当時の海の汀線が現在の標高一〇メートルの辺まで達していたことが推測できる。これに対し、後期の遺跡は、海岸地方にだけ散在したのでなく、海岸から離れた川沿いや、谷の縁(ふち)の各所に存在していた。貝塚分布の状態から、後期当時の汀線はほぼ現在の標高五メートルの辺にあったと推定される。また、武蔵野の石器時代の歴史はかなり長年月にわたって継続したもので、その長い期間における縄文式土器型式が、三十幾つかの段階におよぶ変遷を明らかにしている。(1)