二 毛長堀沿岸地帯

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 毛長堀は昔沼沢状であった川で、川口市に源があり、全長七キロ、幅六メートル、東京都と埼玉県との境を流れているが、東京都に属す川岸は、舎人、伊興、花畑の一部にはいり、新郷、谷塚、草加の一部が埼玉県に属し、足立区舎人町先、川口市江戸袋、八幡木から県境に沿って流れ、足立区花畑町北部で綾瀬川と合流している。この毛長堀の改修工事が綾瀬川の合流点から水神、伊興上谷下にかけて実施されたとき、種々の遺物が出土した。

 足立区における遺跡の多くは、毛長堀沿岸地帯、江戸袋-伊興-花畑にかけて分布しており、伊興の遺跡もその一つである。この伊興の遺跡は、これら遺跡群の中央部にあたり、南東の葛飾区の柴又-新宿-立石町の遺跡群と相対している。毛長堀沿岸地帯は、東は古利根川、綾瀬川に、南は荒川に面しており、江戸袋は足立台地の南端である大宮丘陵のその最南端に位置している。したがって土地は平坦でほとんど高低がなく、わずかに北西部寄りに高く、南東部にかけて低い。遺跡は標高三メートル内外のものがもっとも多く、地質は大体沖積新層埴土で、利根川と荒川とによって堆積されたものである。

 わが足立における遺跡や遺物の研究は、故後藤守一氏の『伊興村の経塚』(2)、末永雅雄氏の『伊興発見の古式の星冑鉢』(3)、および故鳥居竜蔵博士の『立石村付近原史時代の遺跡』(4)の中に断片的に記載されているに過ぎない。最近では『足立区史』(5)(昭和三十年版)にその記載を見る。伊興の経塚は、明治十二年五月の発見なので、その存在が早くから知られていたことがわかる。また、山内清男氏は、学生時代に伊興の遺跡を訪れ、氷川神社付近で一種のへらがきのある弥生式土器を表面採集している。伊興の遺跡は、都内でも珍しいもので、弥生式後期の土器類から古墳時代の各種遺物が多く出土しており、遺跡も広範囲にわたっている。しかし、これら従来の出土遺物は、学術的に発掘調査されたものでなく、多くは農民の耕作時の二段返しによって偶然に発見されたものである。学術的に行なわれたのは昭和三十二年九月のことで、国学院大学大学院考古学研究室と足立区立中学校社会科研究部とが、足立区および足立区教育委員会の後援のもとに、伊興遺跡の発掘調査を実施し、その研究報告書が国学院大学考古学研究報告第二冊『武蔵伊興』として、昭和三十七年に発刊された。


 しかしながら、この方面の調査、研究は現在のところ資料収集の段階にとどまり、その記録も研究過程の報告にすぎないが、古代研究家のよい資料となっている。