伊興町狭間出土の弥生式土器は、比較的良質の土で焼かれ、赤褐色や褐色を呈し、割合に堅く、文様の多くは無文で刷毛目(はけめ)があり、その刷毛目は必ずしも単方向でなく、斜交させたもの、直交させたものなどがある。なかには刷毛目に交って二、三著しく太い箆彫(へらぼ)りの直線を見るものもある。また、口縁部に縄文が施され、それが口唇上部におよんでいるものもある。器形は、壺、高坏、台付甕がおもであり、器内は一般的に中厚手、あるいはむしろ薄い方であり、輪積みの手法が認められるものもある。しかし石器の伴出は認められない。
弥生式土器の発見は、荒川(放水路)沿岸に比べて少量である。出土の土器は弥生式後期のものが主であり、地下七〇センチから八〇センチの黄褐色粘土層と、腐植土との境から出土している。また、この狭間からは古墳時代の遺物が多数発見されている。
また、伊興の狭間から出土した土錘は、いずれも管状で細長く、中央に孔(あな)が通じていて、両端はつぼまり、長さ五・五センチ、直径一・七センチぐらいのものがもっとも多い。これは魚網に使ったもので当時の人びとの生活の一端がしのばれる。
ここで特記すべきことは、さきにも触れた山内清男氏採集の弥生式土器(壺)である。口縁部を欠き、現存する形は高さ八・五センチ、胴径一三・五センチで、輪積み手法で作られた跡をよくとどめている。興味深いのは、頸部から胴部にかけて、一種のへらがきの図があることで、図に示したように中央には頭部と、屈曲した体部とがある一種の動物、その左方に小さく器台状のもの、同じく右方には横に長く羽毛か羊歯(しだ)状のものがそれぞれへらがきしてある。この図がなにを示したものか、にわかには決められないが、筆者の意図は、あるなんらかの関連のある場面を示そうと考えたものであろう。本品についてはいち早く故森本六爾氏が注意して報告(7)されたが、氏もその図の内容については断言をさけ、画というよりはむしろ文様に近似する性質のものであろうと述べている。しかし文様と見るより画に近いことは、この土器にそのほかなんの文様もなく、へらがきが一部分だけに描かれていることから推察されるが、見る人によっていろいろな見解が下されるのはやむをえない。元来、へらがきの図がある弥生式土器は、唐古をはじめ各所から発見されているが、その時期はいずれも後期に属し、さらに後代の土師器や埴輪のへらがきの図とも連なるようである。唐古のものが鹿や舟や倉庫や人物をあらわし、狩猟、漁労または農耕生活の一場面を示していることは改めて説くまでもないが、銅鐸の図では、鶴、亀やとんぼ、くも、かまきりなどの動物だけを鋳出したものもあって、その意図がどこにあるのか知りがたいものもある。したがって、本図のようなものも直ちに当時の生活と直結するかどうかは、なおじゅうぶんに考察しなければならないが、この種の資料に乏しく、ことに関東地方では稀なものであるだけに、貴重な資料といってよい。