第三節 古墳時代

120 ~ 121

 古墳時代は縄文・弥生時代に次ぐもので、文献があっても遺跡遺物が重要な資料をなす時代をいう。鉄器を作る新しい文化が、大和朝廷の確立、その政治的支配力の東漸につれて武蔵野にも波及してきた。

 武蔵野の古墳文化は概して政治的、文化的中心から遠くへだたった地域の特性を示している。その分布をみると、利根川の南岸から入間川沿岸、多摩川沿岸と南下するにしたがい、数や規模が小さくなり、埴輪も少なくなる。形の古い前方後円墳は、北から南にいくにしたがって少なくなり、東京都の区部ではほとんど新しい円墳となっている。しかし武蔵野にはそうとう大きな前方後円墳があり、円墳および横穴は多摩川の左岸田園調布付近と、荒川の右岸志村から赤塚にかけての一帯に多く分布し、この地域の政治的勢力の所在を示している。当時の民衆の生活は稲作を主としたので、生活の舞台は低湿地へと拡大されるとともに、森林にもだんだん斧(おの)が加えられ、そこに空地を作って畑作を行なった。古墳時代の終りのころに朝廷から朝鮮移民がこの武蔵野に送られてのち、いたるところに火田が作られ、武蔵野の原始林はしだいに焼き払われていった。

 足立区には、この古墳時代に属する遺跡が毛長堀沿岸地帯に分布しており、それらの遺跡のある地帯は、利根川、荒川から運ばれた土砂の堆積地で、縄文・弥生時代以来の浮洲などが多く、古墳時代には沖積層がそうとう発達して、新しい土地を形成していたことがうかがわれる。

 故鳥居竜蔵博士は毛長堀沿岸の伊興の遺跡につき、「古墳時代の埴部土器の存在している遺跡は、南足立郡の伊興という所にもある。ここは一帯の丘陵地で、その丘陵の下は多く水田になっている。そうして土地は幾らか低い。この水田の中に、島のような状態に小高くなっている土地があるが、ここから祝部土器や埴部土器も出てくる。これらの土器を見ると、青戸村(葛飾区)遺跡から出たものと非常によく似ている。この間互に関係しているものがあろうと思う。原史時代の研究は古墳そのものによっても知ることができるが、さらにこのように珍しい青戸村や伊興村の住居跡によって明らかにすることができる。」と述べられている。(9)