古墳その他当時代の祭祀関係とみなされる遺跡から発見されている。滑石または蠟石でつくられ、粗製品が多く、必ず孔があるのが普通で、一種の明器的な意義を持つという説があるが、また祭祀に関係あるものと考えられる。
狭間出土の滑石製品は、玉類を第一とし、鏡の退化粗製品といわれる有孔円板、剣形品、紡錘車などがある。玉類には臼玉、平玉、勾玉、管玉、丸玉、子持勾玉の各種が発見されている。
滑石製造器具と称されるもののうち、祭祀用として一般に使用されたものは、臼玉、剣形品、有孔円板といわれる三種で、そのほか模造の勾玉・管玉の類もおうおうにして使用されている。
<剣形品> いずれも滑石製品で、著しく身幅が広く、身幅の中央に鎬(しのぎ)があり、身の断面が菱形(ひしがた)であるものや、扁平(へんぺい)で鎬のないものも出土している。面には一つまたは二つの小孔があるが、これは目釘孔を模したものと見るよりは、糸を通して懸垂(けんすい)するためのものと考えられる。全般にこれは実際の形をそのままに写したものでなく、手法が略され、退化したものと見なされる。
出土の剣形品は、一孔と二孔に大別される。両面Y字形の有稜のものと、片面だけが有稜のものがあり、また稜を両面ともにまったくもたないものとに細別される。研磨されているものは少ない。長さ四〇ミリから五〇ミリ、幅二〇ミリ前後、厚さ四ミリぐらいのものが最も多い。
<有孔円板形石製品> 古墳以外の祭祀遺跡から発見された鏡の退化粗製品である。狭間からは円形、楕円形、方形などが出土しており、一孔または二孔を穿ってある。方形も有孔円板の一変形と考えられ、いずれも祭祀関係品と思われる。
<勾玉> 勾玉にも滑石よりなった実用品と思われるものもあるから、模造品と実用品との区別は、単に質だけで決めることはできない。多くは扁平で、勾玉形の輪廓をしているもので、一見してこれが実用の勾玉と形の異なっていることがわかる。中には形の頽(くず)れたものも多い。
<臼玉> その形は管玉をさらに短かく切ったような有孔滑石製品で、形が臼に似ているのでこの名がある。このものはそれ自身の形であって、臼を模造したものとも思われない。実用の装身具であると同時に、祭祀関係の遺物とされている。狭間出土の滑石製品中の第一を占めるもので、形状は竹管を切断したようなものと、中央にやや稜をもつそろばん玉のようなものとある。いずれも大きさは長さ四ミリ、径五ミリ前後のもので、中にはきわめて扁平なものもあり、また長さ七ミリ、径一五ミリに達す大きなものもある。
滑石製品中、剣形、有孔円板、勾玉および臼玉は、従来各地の祭祀遺跡から共通的に発見される品々で、種類も一定し、製作も粗末なものが多い。
大場磐雄博士は、これらのものを古典の記事と照合し、次のように述べられている。
「上代祭祀を行なうに当り、真榊を根掘りとし、上、中、下の各枝に鏡、玉、剣(または木綿(ユウ))をさげて神を奉斉したことが記されている。如上の滑石製品が、何れも小孔を貫いて他に取り懸けられた装置を有すのは、上述の如く榊の枝に着けて使用せられたものであることを推定せしめ、手捏(こ)ね粗製の小形の土器類とともに、その用法が知り得られて誠に興味深い。」(11)
<子持勾玉> おもに古墳文化に伴う石製品で、古墳から発見されることもあるが、他に祭祀信仰関係などの遺跡からも出土されている。滑石または蠟石などで作られた一〇センチ内外の大型の勾玉状のものに、その両側面、腹背面に魚鱗(ぎょりン)様の数個の小勾玉状突起が見られるのが典型的なもので、装身具としての意味でなく、おそらく祭祀信仰的な意味をもったものと考えられる。
狭間出土の子持勾玉は、いずれも滑石製で、四個あり、そのうち一個は頭部と尾部の破損がはなはだしく、頭部の孔と腹部に一個の子を認めるにすぎないが、他はいずれも子持勾玉として典型的なものである。そのうち二個(2)(3)は、腹に一個、背に三個、左右側面におのおの二個の子を持ち、(2)は全長九・五センチで最大であり、頭部の穴は両方から穿たれているが貫通していない。(3)は全長八センチ、子持勾玉中の優品であり、その名にふさわしい典型的のものである。他の一個(1)は、尾部を欠損し、左右側面に各三個の子をもち、体に重圏文(じゅうけんもん)を散刻しているのが、前二者と異なり、表面に美しい光沢がある、穴は(2)と同様両方からあけられているが貫通していない。また腹部の子の頭部は穴を両面に持つが通じていない。この付加物はいわゆる「子」なる子勾玉というに最もふさわしい。
(1)(2)は狭間八六二番地の同一畑地から耕作時に出土し、(3)はゴミ捨場を掘る時に狭間八五三番地から出土したもので、他の一つは表面採集によるものである。子持勾玉は古墳出土のものを除いて、銅鐸出土と同じように周囲になんらの構築もなく、単独に地下七〇センチから八〇センチの所に埋蔵されていて、伴出物もほとんどない。(3)の出土状態は比較的明らかで、信用に足るものと思われる。すなわち、小丘、立石などの構築物はまったくなく、地下九〇センチの粘土層と、腐植土との境から出土し、そこから九〇センチと離れていない所から、土師器の坏・盤が重なって出、高坏も数個出土した。伴出事実としての価値は少ないが、子持勾玉出土の遺跡からは、扁円形有孔石製品や臼玉がおうおうにして発見されており、本例もその付近から石製ならびに土製模造品を多く出土した。
子持勾玉出土の遺跡分布は、関東地方が最も多いが、狭間遺跡からこれが出土したことは、都内ではじめてであり、しかも四個も出土したのは特筆すべきことである。
大場磐雄博士によると子持勾玉の発生は、古墳時代中期に滑石製遺物の一群中から、祭祀用品が分離した時、勾玉に対する呪力を強化して同形の子を付着させたものが、その発想であったのではないかと、いっており、また子持勾玉は五世紀中葉ごろから流行し、そのころすでに各種の形式がそろっていたと考えるべきであると述べている。(『武蔵伊興』)
<綜麻石(へそいし)> 一種の紡錘車で、糸をつむぐに棒のさきにこれをはめこみ、その棒に糸をまきつけながら撚(ね)ったもので、狭間から破片ともに二十個出土している。
紡錘車の中には実際の紡織用に使用されたもののほかに祭祀用に用いられた場合が考えられる。今回の谷下地区の発掘では有文紡錘車一個を出土したが、大場磐雄博士もそれが祭祀用品であったと推定している。その理由として皇大神宮その他の大社に奉献された神宝中に紡錘車(古語「鎛」和名「都美」)があり、それは神それ自身が紡織せられる料として、あるいは神衣の調進を意味して本品を神宝中に加えたものであり、滑石製品もまた神宝として奉献されたものであろうといわれている。(『武蔵伊興』)