狭間部落の西端にあたる桃畑のほぼ中央部にトレンチを設定したのが狭間地区班である。遺跡は谷下に続く平坦な微高地である。本竪穴は桃の木の下位にあたり湧水がはなはだしく、十分な調査ができなかった。
竪穴のプランは不明であり、溝および柱穴などは検地できなかったが、寺村光晴氏は長辺を約三・五メートル、短辺を約二・三メートルとする南北に長い長方形の竪穴と推定している。また他のトレンチの一部でも住居址らしい竪穴の存在が認められているので、その相互の距離や遺物の内容などから観察して、同時もしくは近接する時期において、本地区にはさらに多くの竪穴が存在し、一大集落を形成していたものと推定される。また鏡(珠文鏡)については、単独出土ではあるが、その出土状態からして、該包含層における土師器との共存関係および竪穴との関連が認められ、該期における遺品とされている。(12)遺構の状況は住居址群の存在を推定させ、しかもこれらの存続年限を暗示するような状態で、和泉式以前から鬼高式にわたる長期の土器の包含を確認されている。寺村光晴氏はこれに加えて、剣形品や臼玉などの祭祀関係品が和泉式期に随伴する事実も把握され、この種遺物の年代や遺跡の性質を推察するうえに、示唆を与えるものとして留意すべきであると述べている。(『武蔵伊興』)