狭間部落の西南部にある常福寺の境内南側畑地に設定されたのが常福寺地区である。遺跡は南に緩く傾斜する微高地縁端にあたり、前面は水田となっている。
寺村光晴氏は発見された竪穴住居には水害による破壊の跡が認められ、また一部人為的に破壊されているので、そのプランなどは判明していないものの、当初における竪穴が洪水などで破壊された後、同一地点に再び別の竪穴が構築されたものと推察されている。(『武蔵伊興』)
<常福寺地区出土の土器>当地区は住居址と推察されるものの破壊の跡が著しく、しかも層位によってこれを明確に区分することがはなはだ困難な状態にあったので、土器自体の検討からタイプの特質を把握し、住居址の構造と層序による知見を加味して、故金谷克己氏は復元的に観察して、土師器を四類に分類し、それぞれのもつ性格を『武蔵伊興』第二章第三節常福寺地区の中で、次のように述べている。
<弥生式土器>(1~4)赤褐色を呈し、焼成堅緻(けんち)である。破片であるため器形は定かでないが、通じて頸部がく字形に屈曲している。1・2は帯状の複合口縁で、粗く鋭い刷毛目を残しており、3は漏斗状に開く口縁外部に四個の隆線を縦に取り付け、4は円形浮文が頸部に認められ、いずれも内外に赤色顔料を塗布している。後期に属すものであろう。
<第一類土器>(5~19)は当地区では古式に属す土師器と考えられるが、これを和泉式土器と比較するとそこにはやはり異なった要素が摘出されるばかりでなく、和泉式土器以前と思える。例えば平出第一様式とも共通した要素を多分に含んでおり、あるいは末期弥生式土器に連なるものであるかも知れない。ことに、甕、坩、器台などは近年五領式土器と呼ばれる一群と、ごく共通的な類似性を帯びていて、本類は弥生式土器から土師器への過渡的な段階にあるものとしての同形式土器と併行ないしは対比されてよいのではなかろうか。
<第二類土器>(20~40)についてみると、第一類土器の諸様相を享(う)けて変移し、それぞれが一つのタイプとして形成され、和泉式土器の一部に該当する。さらに一般には口縁が外反することから、本類の特徴的なものが一応理解されるにしても、そこにはすでに須恵器の伴出を見、かつ滑石製品や土製模造品の出現も考えられるから、単に土器のタイプだけでなく、その時期的な内容を伴出遺物の面からも把握することができたわけである。
<第三類土器>(41~55)は同じく和泉式土器に所属させたものの、胎土、焼成共に第二類土器と異なって粗製品が多いばかりでなく、総じて頸部の開きも大きく、口縁が立ち上がる傾向にあり、ことに盌において顕著な差異が認められるので、多分に次期への変化を認めることができるので、第二類と分離して第三類の範疇に含めたわけである。
<第四類土器>(56~59)はごく少量の出土を見たに過ぎないが、鬼高式に該当する特色をもっている。ところで東日本ではこの時期にいたって須恵器の伴出が知られているけれども、当地区での所見では前述のような第二類土器において、すでに須恵器伴存の確認を得ている。滑石製勾玉や土製鏡は、いずれも住居址の床面上もしくはこれより二五~三〇センチ上位で検出されたものであり、住居址と直接的な関係において考慮してよいものであろう。
大場盤雄博士は伊興の遺跡につき、その発掘報告書『武蔵伊興』第三章第二節祭祀遺跡の考察の中で次のように述べている。
集落遺跡は狭間、常福寺両区から谷下地区の全般に及び、今回の発掘では、狭間・常福寺地区で竪穴遺跡が発見された。
今回の発掘の結果から見て、祭器類の多くは谷下地区の一部に密集して発見された観を示しているところから、一応この地域を祭祀関係地区と考えられる。祭祀地区が遺跡全体から見て東北端にかたよっていること、そして地形的にも最も低く、やがて細流と田圃に直面する位置にあることを指摘し、これは当時祭祀の行なわれた地点が、部落の東北隅に近い個所にあったことを物語ると同時に、今の田圃はおそらく当時は湿地または沼沢地であって、入江か大河に直通しており、舟行の便もあったであろう。そういう位置を神祭りの庭としたことにはなんらかの意味があったと思われる。さらに遺跡の北端に鎮座する氷川神社について次のように推察したい。また氷川の語義はヒカハすなわち霊川を意味し、古代人が川の恩恵や暴威に対して霊力ありとしての尊称であると考えられ、伊興の氷川神社も古く淵のほとりにその水霊を奉祀すべく設けられた斎場が、いつしか固定して部落の産土神となり、固有信仰の内容とも一致する氷川社の称号が付与されたとも考えられる。
さらに伊興の古代祭祀遺跡が作られた当時(五-七世紀ごろ)は、遺跡発見遺品中に多数の土錘が存在することや、籾痕のある土師器の存在、さらにはこの近くが万葉集に見える葛飾早稲(わせ)の産地であったことなどからも推察されるように、ここに住む住民たちの生業が、漁農相半ばするものであったことは推察に難くない。そこで第一に水系の利用ならびにその恩恵は、かれらの生活に最も重要な問題である。したがって部落民の平和と安泰とを祈るために、水の霊を和げ、その恩恵を蒙るために、当然祭祀の対象は水霊の招祭が中心であり、水辺に近い部落の東端に斉場を設け、型通りの祭儀を行なった後、所用の祭器類を付近に一括埋納したに相違ない。集落の一部で祭祀が行なわれた時、それが単に個人的なものか、部落の共同のものか判定に苦しむものであるが、いずれにしても本遺跡の全般にわたって各種の祭祀が幾度もくり返し行なわれていたことは疑いがない。この地に住んだ土師文化人は、当代人に共通する信仰に厚い人びとであったことが遺物上から立証されたといってよい。