以上で足立区の遺跡と、その発見遺物の大要とを記述したが、上述の資料を中心として、当代の生活様式を推考してみよう。
足立区内から出土した石器時代の遺物は、わずかに縄文土器数片であって、土器以外の遺物の発見はまったくなく、何んとも論断することができない。
石器時代の狩猟、漁撈(ろう)その他の採集経済も、おいおい進歩し、弥生式時代になると、順次低地へ移動し、原始的な農耕も開始され、水稲なども栽植された。弥生式文化の時代は、世紀前後からほぼ二、三百年間継続するが、この時代の特色は大陸文化の影響により、農耕と金属器の使用である。住居には水田の必要から、湿地、川の流域、丘のはしなどがえらばれた。足立区内の弥生式の遺跡も、この例にもれず、いづれも河川の流域に沿って存在している。花畑、伊興は毛長堀、小台、豊島は隅田川沿岸である。これらの遺跡地は、いづれも水域と重大な関係にあったことを物語っている。
多数遺物の出土する地点は、集落の所在したところで、花畑、伊興のいずれも集落址と見るべきである。
本区から出土の弥生式土器は少量で、研究資料としては不十分であるが、出土の土器は弥生式後期のもので、石器は存在しない。花畑出土の底部に籾の圧痕と認められる土器片や、伊興出土の土錘は、当時の民衆生活様式を実証する貴重な資料と思われる。当時、鹿・猪類が横行していたことは、自然遺物中に「ニッポンジカ」の頭骸骨が二個、花畑から発見されていることからも推察される。また伊興から出土した管状および球状の土錘は、水辺において民衆の生活が営まれていたことを物語っている。
弥生式文化時代につぐ時代を、普通古墳文化時代(原史時代)といい、文化系統からいえば、弥生式文化に続いて、その文化を継承し、また更新した時代である。古墳は三世紀ごろから大いに流行し、五、六世紀ごろには最も巨大なものが作られた。この古墳造営には多大の労力と経費がかかるので、しだいに衰え、ことに仏教がわが国に伝来され、火葬が行なわれるようになってからは古墳はようやく作られなくなった。したがって古墳文化時代とは、三世紀ごろから仏教がわが国に伝わった六世紀後半ぐらいまでを指している。
一方生活様式としては、農耕がますます盛んとなって、旧来と趣を異にした経済生活ないし所有財産の生活が行なわれてきた。その結果、強大な武力と財産を有すものは、ここにある種の社会統制力を生じ、やがてまたそれが社会の中心勢力となり、他を支配する権能を持つようになって、治者、被治者の別ができ、国家組織の体系を生じてきた。それがまた進展する間に、種々の階級制度が生まれ、特権階級者は、日々の生活の上で栄華をきわめるに至った。今日まで遺存して、その当時の栄華を偲(しの)ぶ手がかりが、その墳墓である。当時支配者階級は、その勢力に応じてそれぞれ巨大な墳墓を築造した。この時代が古墳時代といわれるゆえんである。
本区の古墳の分布は、花畑の大鷲神社周辺および仲組、伊興の白幡、谷下、聖堂および竹塚、入谷、大谷田に分布していたが、すでに取り崩されて原形を保っているものはほとんどない。当時の一般大衆の生活形態に関しては、正確な記録はもちろん遺物も、土器を除いてはほとんど残存していない。しかし一般住民達の生業は、漁農相半ばの生活をなし、あわせて狩猟、牧畜に励んでいたことが想像される。花畑、保木間、伊興、舎人から多数の土錘が出土したのは、かれらの生活の一端を物語っている。土器は各地から比較的たくさん発見されているが、これは当時その製作、使用が一般的であったことの証左である。
当代人の食料およびその調理などについては、これを具体的に示す資料に乏しいが、伊興からは甑が多く出土している。これは米がみのったとき、穂を摘み採って乾燥し、籾のまま倉庫に貯蔵し、必要に応じて舂(うすづ)いて脱穀し、笊(ざる)に入れて洗い、甑に入れて蒸した。大古の米飯は現在のように煮炊きしたものでなく、甑を釜にかけて蒸炊きしたのである。
また伊興からは糸に撚(より)をかけたと思われる紡錘車も出土しており、その糸をいざり機にかけて、布帛に織ったものと考えられる。
狭間から多数の装身具が発見されているが、頸には勾玉、丸玉、小玉などの玉類をその糸で飾ったものであろう。これは男女ともに喜んで行なったと思われるが、ことに女子は美しい瑪瑙勾玉、碧玉管玉、玻璃玉などを使用したことなどが考えられる。当時においてこれらは貴重品であったから、これを飾りえたものは限られた階級の人びとであったにちがいない。
当時の宗教は、現在の固有神道または原始信仰と呼ばれるもので、万物に霊を認めたアニミズム(万有霊魂説)の域にあり、したがって個人的には各自随意な対象を崇拝し、これを祈りまたは祭ったが、同時に部落全体として共同に祭った神がみが存在したと考えられる。その中で最も中心となっていたのは漁撈、農耕の神で、水霊の奉祀、豊漁、米穀の豊穣(じょう)を護り、風雨、水害などの災を防ぐ霊として、これを信仰し祭祀したのである。祭祀は女子、あるいは特定の巫女(みこ)によって執行され、それに使用されたと考えられる遺物が発見されている。すなわち石製模造品と土製模造品である。滑石製品は狭間からは、扁平な勾玉、剣の変形といわれる鏃形(やじりがた)のもの、小円板に小孔を穿ったもの、玉類ことに管玉をさらに短かく切ったような臼玉や、都内で始めての子持勾玉などが出土した。土製模造品の土器は、一見実用とは考えられない手捏(こ)ね粗製の小形品が多く、中には丹塗りのものもある。上代人が丹を塗ることは、神聖化する手段であって、丹塗りされたものは、神のもの、霊力のひそむものと考えられ、神祭に使用された。また日常の器物そのままを、斉瓮(いわいべ)とした場合もあったと考えられる。
大場磐雄博士は、祭祀関係品の用法につき、次のように述べられている。
祭祀関係の用法については、古典にしばしばうかがうことができる。すなわち日本書紀神武紀に、天香山の土を採って、八十平瓮(やそひらべ)、天手抉(あめのたくじり)、厳瓮(いつべ)を作り、神祇を奉斎した記事がある。土器中の盤、盌などはこれに相当するもので、手抉の名が手捏ね製のものを意味することとも一致する。また土器中底に木葉を印したものの多い事実は、神饌(しんせん)を檞(かしわ)の葉に盛ることと合わせ考えて、興味ある事例を示している。また万葉集に神をいわう状態を述べて「斎瓮を斎い掘り据え、竹玉を繁む貫り垂り」とあるのは、土器が祭祀の必要品であったことと、竹玉すなわち臼玉または管玉がこれに使用されたことを物語っている。さらに神代紀やその他に神を祭るにあたり、真榊を抜いてその枝に、玉、鏡、剣を懸けて祈ったとあるのは、石製品中の祭祀用品といわれるものが、いずれも小孔がある点から、同様に用いたものだと考えられる。さらに子持勾玉は、その用途が不明であるが、ある一種の呪物として特定の祭祀、または神への幣物・賽具として用いられたものかも知れない。(14)
次に祭祀と関連して葬制について考察する。先史、原史、歴史の三時代を通じて広く行なわれたのは、土中葬であった。先史時代には地面下に葬穴をうがって、これを埋葬したが、原史時代になると大小の差はあっても墳丘の中に蔵(おさ)めるようになった。この古墳はその様式から、元来大陸から移入されたものであるが、一面わが国独特の発達もとげてきた。しかしこの古墳とこれに伴う副葬品は、いずれもわが国上層階級に専属するもので、これをもって一般大衆の文化相と見ることはできない。花畑、伊興、入谷には古墳があり、とくに伊興には狭間の東部および北部にかけて古墳があり、集落と墳墓の関係を暗示している。
伊興の集落地区は大規模であり、当時の住居は相当数あったと推定され、今回の発掘で、その一部が現われたものと思われる。さらに前記のとおり狭間や谷下からは、弥生式後期の土器類から古墳、祭祀および住居跡関係の遺物も多く出土し、引き続き歴史時代の遺物も発見されている。これは集落が相当長い間連続していたことを意味するもので、弥生時代から古墳時代へと移行するにつれて、人口が増加し、集落がふえていったものと考えられる。そして今回の発掘によって四、五世紀から七、八世紀の約三〇〇年間にわたり、大集落があったことが明らかにされた。
足立区内には神社が八十九社あり、各地の鎮守として祀られているが、なかでも大宮市の氷川神社は武蔵国一の宮として、古くから世人に尊敬されていた。当区も昔は大宮と同郡であったので、その分霊が各地に祀られたのである。この祭神素盞嗚尊は、もと島根県(出雲)簸川(ひかわ)のほとりにまつられ、水に縁があり、区内の氷川神社もたいてい川沿いの地にまつられている。足立区の遺跡の分布を見ると、だいたい氷川神社と関係があって興味深い。多数の遺物が出土した伊興谷下遺跡にある氷川神社は、淵の宮と称し、もと淵江領四十八か村の総鎮守であったと伝えられる。淵の宮の由来記には「往昔社殿の北方埼玉県北足立郡新郷村八幡山に至る間、一帯の泥江にして、船にて往来を通ぜしという意ありしを以って、淵の字をあてしなり」とあり、「淵江の郷、この宮より起る」といわれている。
最後に遺跡遺物を通じて当時の生活環境をうかがうと、この付近一帯に森林が繁茂し、鹿や猪類が多数生息していたことは、かって「ニッポンジカ」の頭骨が花畑の水神橋寄りから二個、伊興町谷下から四個発見され、昭和三十二年の発掘でも谷下地区から鹿歯が出土し、これを証拠だてている。また水神の毛長堀改修工事で、大杉の根株が多数発見されたことから、付近景観の一端が知りえられた。次に毛長堀沿岸地帯からおびただしく発見された土錘は、当時近くに入江が湾入し、あるいは潟状を呈する水系が多かったので、漁業が行なわれたことを示している。氷川神社の存在もこういう背景のもとに鎮座したことと推察される。しかし他面、当時集落の生業が漁農半ばするものであったことは、発見された土師器に残された籾の圧痕や、炭化米の出土などからわかるし、また、稗の存在も認められるから栽培されたものとも推定される。とくに興味深いのは谷下の水神橋寄りから土師器・須恵器類とともに木製臼の発見されたことである。出土状態については不明であるが、高さ三六センチ、上部直径五七センチ(推定)、底部径五四センチ(推定)、伴出土器から見て土師時代の木臼と推定され、いままでに発見例を見ない珍らしい資料であるとともに、当時の農耕生活の実態を示すものである。
以上物質的に恵まれた伊興および周辺の古代住民はその精神生活の一面として、神祭りに専念していたことは、各地発見の祭祀遺物からうかがわれる。祭祀遺物の量の豊富な点では、都下随一であり、全国的にも屈指なことは、かれらの生活がいろいろな点で神霊の加護を必要としていたかを物語っていると考えられる。
(注)(1)八幡一郎・和島誠一「武蔵野台地の遺跡と遺物」
山内清男「日本遠古之文化」
八幡一郎「日本石器時代文化」
(2)「伊興村の経塚」(東京府市蹟名勝天然記念物調査報告書第三冊)
(3)末永雅雄「日本上代の甲冑」
(4)鳥居竜蔵「上代の東京とその周囲」
(5)「足立区の考古学的考察」(三十年版足立区史第二章)
(6)東京都文化財調査報告書十四
(7)森本六爾「日本上代文化の考究」後篇の「原始絵画を有する弥生式土器」中に記述し、その拓影を載せている。これによると山内氏は大正八年一月に採集している。
(8)可児弘明「水元採集の土器と化石」郷土十三号
(9)鳥居竜蔵「上代の東京とその周囲」
(10)新篇武蔵風土記稿に「塚の除地二十二歩、百姓持なり。塚上に古松ありしが後年立枯れて大風に吹き倒され、根本より兵器とも多数出たり云々」とある。
(11)大場磐雄「赤城神の考古学的考察」
(12)国学院大学考古学研究報告第二冊「武蔵伊興」狭間地区遺物第三類土器焼成は概して良好で、刷毛目がきわめて少なく、胎土や器形などからいってあるいは和泉式土器に属するものかも知れないが、鬼高式土器との接触も考えられるので、その移行過程に存在したものであろうと思われる。珠文鏡は、本類と伴出している。
(13)鳥居竜蔵「上代の東京とその周囲」
(14)大場磐雄「日本考古学新講」
なお、四〇・四一・四二・四四・五五・五七・五八頁の図版は「武蔵伊興」から転載。