一 大和朝廷の成立と国土の統一

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 大和の地に天皇を中心とする政治組織がいつごろでき上り、国土統一の事業はどのようにすすめられていったか、なかでも中央と東国との接触はどのように行なわれ、その支配下に吸収されていったものであろうか。

 これらの歴史的過程を明らかにする具体的史料はきわめて乏しいが、『日本書紀』や『古事記』は一応この辺の事情をかなり詳しく、明快に記述している。

 すなわち神武天皇の東征から大和橿原での即位、そして以後は連綿として皇統が受けつがれたことになっている。しかしこの東征の記事は正しい史実とはいわれないし、また紀元前六六〇年の即位ということも実は架空の年次である。これは中国の暦の知識が伝えられてから、おそらく七世紀のはじめに、一二六〇年めごごとの辛酉の年に天の命が革(あらた)まるという讖緯(しんい)説をとり入れ、推古天皇辛酉(六〇一)の年から一二六〇年さかのぼって設定された紀元である。ただこの東征の説話伝承そのものが史実でないとしても、「記紀」の記述のすべてをまったくの作為として、ほうむり去ることはできないであろう。

 たしかに「記紀」は八世紀の宮廷史家によって作られたものであるが、その伝承のもとは、六世紀にできた「帝紀」、「旧辞」であったということは、今日定説となっている。したがってまた「帝紀」、「旧辞」に記されたことは、また大昔から伝えられていた、ある史実についてのいい伝えであったかも知れないからである。

 しかしとにかく「記紀」の記述からは統一日本の成立した時期や、経過を明確につかむことは困難である。幸いにわが国より早く文字を有していた中国の記録、とくにその歴史書をたどってみると、かなりはっきりするものがある。そこで中国の記録をおもに利用しながら、この国土の統一の過程を追ってみた。

 漢書の地理志にみえる記事は、日本に関するほぼ確かな史料として最初のものである。

   曰く、「夫楽浪海中有二倭人一。分為二百余国一。以二歳時一、来献見云。」

 漢書の成立年代から推すと、これは西暦紀元前後のわが国の状態を述べたものである。この百余国という数字はともかくとして、弥生式時代の中ごろには、おそらく北九州あたりに多くの小国家が分立していたことであろう。

 『後漢書』から三国志のいわゆる『魏志倭人伝』にいたると、わが国に関する記録がかなり明確になってくる。「邪馬台国」に関する記事がそれである。このころになると有名な女王卑弥呼を盟主とする三十ほど小国連合、すなわち邪馬台の連合政権ができ上ってきている。卑弥呼は三世紀中ごろの人であり、その在位年間はおそらく一八〇年前後から二四八年前後と推定されている。しかしこの強大な邪馬台連合も二六六年、倭女王が中国の西晋に使者を送って貢献した以後は、杳(えう)としてその消息を断ってしまっている。

 さて、このような女王の統治していた邪馬台国は果してどこにあったのであろうか。

 この邪馬台国の位置の探究は、実は大和朝廷の成立や国土統一の時期を、どこにおくかということで、きわめて大切なことである。しかし現在のところ、まだ大和説と九州説が対立して、結着をみない論争を展開している。

 いまかりに大和説が正しいとすると、邪馬台連合の盟主は大和朝廷となり、その所在地も奈良県大和となろう。してみれば倭人伝の記事では北九州の沿岸の奴国、伊都国などいずれも邪馬台国の支配下に属していたのであるから、大和朝廷はすでに北九州を統一していたこととなる。この際東国のことはよくわからないが、畿内大和と北九州といえば、弥生式文化の二大文化圏の中心であるから、日本の統一国家は卑弥呼のころ成立していたこととなる。しかしこれはいまだ憶測にすぎない。さらに新しい文献、「高句麗の広開土境王の碑」についてみると、倭は辛卯の年に海を渡って百済、新羅を破り臣民となしたという文がある。辛卯の歳は三九一年にあたり、この海外にまで侵攻した倭国は、当然統一国家の成立したあとのものとなるであろう。すると三世紀の後半のある時期から四世紀のときに、日本は小国家の分立から統一国家に発展したと考えられる。これとあわせて古墳の造営を考えてみると、統一国家成立の時期、あるいは経過を知る一つの手がかりとなる。

 古墳は畿内を中心として発達したものであるが、これは厚葬思想のあらわれであり、被葬者の高い地位や権勢を象徴するものだからである。現在考古学的な研究の成果からは、古墳の形の推移や副葬品などの組み合わせなどから、四世紀の前半か、これより早くても三世紀のごく終末のころから発生したと考えられている。してみればこのころからが、大和朝廷の成立、発展の時期と考えられる。

 さらに四世紀の後半から五世紀にわたっては、統一国家もしだいに発展し、地方に対する勢力も伸展しはじめた。宋書『夷蛮伝』には倭の五王(讃・珍・済・興・武)が、宋としばしば交渉を持つようになったことが記され、特に注目すべきは、倭王武(雄略天皇)の上表文である。そのはじめに大和朝廷による全国統一の過程が概述されている。

  「順帝昇明二年(四七八)遣レ使上表曰、封国偏遠作二藩干外一。

  自レ昔祖禰躬擐二甲冑一、跋二渉山野一、不レ遑二寧処一。東方征二毛人一、五十五国、西服二衆夷一、六十六国、渡二平海北一、九十五国。」

 これは祖父の功業や古くからの伝承を物語ったと考えられるが、禰は祖先とも解され、あるいは「御肇国天皇」といわれた崇神天皇とも考えられる。また毛人はおそらく蝦夷のことである。とにかく祖先の天皇が長い間かかって地方の平定、経営に苦心したことがよく表現されている。

 これを古事記や日本書紀についてみると崇神天皇から垂仁、景行天皇の三代にわたっては、征討や治国に関する記事が多い。

 すなわち崇神天皇(実在ならば二七〇~二九〇年ころ在位)のときには、祭政分離や四道将軍派遣がある。

 また景行天皇のときには日本武尊の熊襲征伐や、東夷(毛人)の平定があった。また景行帝みずからも筑紫に幸したり、熊襲を征したり、あるいは伊勢から東海を経て上総にまで巡幸されたという。

 毛人五十五国がどの辺をさすか明らかでないが、白河、菊多の関は東夷に対する辺境防備の施設であり、五世紀の中ごろにおかれたとの説もある。してみると倭五王の時代、すなわち五世紀には日本の国家の境域は、西は九州から朝鮮の南部にわたり、東は関東に及んでいたということになる。