大和地方を中心として、国土統一の事業をすすめられたころの、大和朝廷の勢力範囲はすこぶる狭いものであった。
しばしば東国にも鎮撫平定の事業をすすめられていたことは前述のとおりである。
崇神天皇のときに及んで、はじめて四道将軍が派遣され、これを機として大和朝廷の勢力範囲も四囲に拡まり、その〓化も遠く東国の地方にまで及ぶようになった。地方を統べる国造もその数を増し、この地方にも知知夫国造の任命をみることになった。このときにおける国造のおもなるものをあげると、知知夫国造(武蔵国秩父郡)久比岐国造(越後国頸城郡)高志深江国造(越後国治川郷深江)出雲国造(出雲国出雲郡)岩見国造(岩見国)吉備中ツ県国造(備中国)波久岐国造(与之岐=周防国吉敷)波多国造(土佐国幡多)火国造(肥前国)阿曾国造(肥後国阿蘇郡)上毛野国造(上野国)等々十指にあまるものが数えられ、範囲も遠く九州から越後に及んでいる。知知夫国も上毛野国とともに早くから朝廷の統治下にはいることになった。これは当時西方からの主要交通路が東山道であったことによる。次いで景行天皇の御世に塩海足尼(しほみのすくね)を甲斐国造になされた。
ついで、成務天皇の御代には、先帝の後をうけて、国家統治の基を固めるべく、即位の四年に大詔を下して、諸国に国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、稲置(いなぎ)を置くことを命ぜられた。ここにおいて国造も増置され、『国造本紀』によれば、その数百四十四に及び、新置六十三か所の多きに及んだ。当地方、旡邪志(むさし)国造が任命をみたのもこのときであり、胸刺(むさし)(旡邪志とともに今の武蔵)相武(さがむ)、師長(しなが)(相武、師長ともに今の相模)須恵(すえ)、馬来田(むまくだ)、上海上(かみつうなかみ)、伊甚(いじみ)、武社(むさ)、菊麻(きくま)(ともに今の上総)、阿波(今の安房)、印波、下海上(しもつうなかみ)、(ともに今の下総)の東国の諸国造は旡邪志とともに、この朝に置かれ、下毛野は仁徳天皇の御代に、上毛野国より分離して、はじめて国造を置かれたのである。後世武蔵国と称せられるものは、知知夫と旡邪志、胸刺の三国造をあわせたものであるが、ただし旡邪志、胸刺を同一の国造と解する説もあって、上代では知知夫、旡邪志の両国造が存したものと思われる。