皇極天皇の四年(六四五)六月、孝徳天皇が即位されるに及んで、はじめて年号をたてて大化とし、諸臣にはかって国政の刷新を企図された。その目的は、旧来の氏族制度を打破して、強力な中央集権国家を形成することにあった。まず従来の国造、県主などの地方豪族が私有していた土地、人民はすべて朝廷に収め、新に国郡の制をしいて国司、郡司の任命をみることとなった。その諸制度典章はしばしば潤飾補修されて、遂に文武天皇の御代大宝元年(七〇一)八月に至り、令文の完成を得て天下に公布された。
大宝律令がそれである。律令はその後奈良平安時代を貫く政治の基本原理となった。大宝の戸令では、国を分って大、上、中、下の四等、郡を大、上、中、下、小の五等に分つこととした。これによると武蔵は大国のうちに属する。さて国郡の制定は、当初東国の諸国に施し、ついで倭(やまと)の六県に試み、しだいに他の地方に及ぼすことにしたようである。
孝徳天皇紀大化元年(六四五)八月の条には「東国等の国司を拝す」と見え、これが大化改新による中央集権政治を、地方に施す最初の試みであった。
この東国に派遣された国司の任国は、翌年三月の条によると「前に良家大夫(たかきいえのまちきみ)を以て東方八道を治めしめ、既にして国司任につく」とある。ここにおいて東国は、統治上八か国に分けられることとなったのであるが、この八か国がいずれの国々であったかは詳(つまびら)かでない。もっともそのころは国名もまだ判然とせず、境界もまた確定していなかったようである。
大化二年三月この八か国の国司に対する詔にも「宜しく国々の〓堺(きょうかい)を観て、或は書し、或は図して持ち来って示し奉れ、国縣の名は来たらん時に定めん」とある。『常陸風土記』によってその八か国を察するにおよそ相模・上総・下総・常陸・下野・上野・武蔵・陸奥の地であろうといわれ、武蔵もその中に含まれていたことは事実である。
ついで元明天皇和銅六年(七一三)五月には、詔して畿内七道諸国郡郷の名に好字をつけしめられた。延喜の「民部式」にも「凡諸国部内郡里等名竝用二二字一必取二嘉名一」とあり、かくて郡郷などの名も二字に定まり、その文字も、みなめでたい意味のものを用いるようになった。武蔵の国名を見たのも、恐らくこの時ではなかろうかといわれる。
国郡の制定に伴って、国衙の位置も移動した。
国造統治時代における旡邪志の国衙は、埼玉県大宮市と解釈されているが、大化の改新以後には、遙かに西南に位する多摩郡府中の地に置かれるようになった。武蔵一国の治所として府中の地は、西南に偏在して不自然の感はあるが、旧套(きゅうとう)を脱する意味からも、またしだいに開けてきた隣国相模との交通関係をも考慮してその決定を見たものと思われる。
国造に代り国務を統べる国司は、当初屯倉の管理ならびに付近の国造などの行政監督をしていたもののようである。先に東方八か国に遣わされた国司などは、いずれも良家大夫であって、その人名も『日本書紀』には見えているが、いずれが武蔵の国司であるか詳(つまびら)かでない。武蔵国司として判明したもののはじめは、文武天皇大宝三年(七〇三)七月に任ぜられた引田朝臣祖父である。
「延喜式」によれば、大国たる武蔵国の国府吏員は次のとおりである。
守 一人 従五位上 介 一人 正六位下
大椽 一人 正七位下 小椽 一人 従七位上
大目 一人 従八位上 小目 一人 従八位下
その他 史生三人 国博士一人 国医師一人 陰陽師一人
となっている。
国司の得分は、職分田、事力の給与、公廨稲(くげとう)の分配などが主なものであるが、武蔵の国司の職分田は、守で二町六反、(一町は約九九〇〇平方メートル)、介二町二反、椽一町六反、目一町二反、史生六反、国博士一町六反、医師と陰陽師はともに一町四反となっている。その他事力の給与、公廨稲の配分も少くない。