足立区の源をなした足立郡の名は早く、すでに大化改新の際に命名されたと見られるが、その文献に表われるのは、『続紀』称徳天皇神護景雲元年(七六七)十二月壬午に「武蔵国足立郡人外従五位下丈部直不破麻呂など六人賜姓武蔵宿。」とあるのがはじめである。郡衙すなわち郡政庁は、足立郡内で国造の始祖を祭祀した北足立郡大宮の地と解せられる。大宮氷川神社宮司家である西角井系図によれば、この丈部直不破麻呂は国造宇那毘足尼の子八背直の系統で、八背直は「応神天皇御宇、為二膳丈部一供奉、故負二膳丈部直一」と見え
と系統して、氷上万呂は足立郡司大領外正六位上とあって、諸国に国司・郡司任命の際、はじめて足立郡大領すなわち「郡長」となった人と思われる。不破麻呂(不破麿)などは武蔵宿の姓を賜い、その子弟総は延暦十四年(七九五)十二月に、「武蔵国足立郡大領外従五位下武蔵宿祢弟総為二国造一」と『類聚国史』神祗部に見え、その後、その子武総、大領、その子国雄、少領、その子武沢、擬大領、その子武成、大領、その子武芝、足立郡司判官代となって『将門記』にその名が見えているので、足立郡の長官職は大宮氷川神社に奉仕した神官で、武蔵宿祢の姓を賜った一族によって、奈良平安時代まで及んだものと考えられる。不破麻呂の女であった采女刀自は、『続紀』延暦六年(七八七)四月紀に「乙丑、武蔵国足立郡采女掌侍兼典掃従四位下武蔵宿 家刀自卒」と見えて、女官として従四位下にすすんだ特殊の出世であり、足立郡領家のために功績のあった人というべきである。