三 武蔵の国勢

191 ~ 194

 武蔵国の当代における境界は、西は甲武の連山によって甲斐と境し、北から東にかけては、利根川をはさんで上野および下野に対し、南は武蔵南部の丘陵地帯の南限によって相模に連なり、東南部は東京湾に望んでいた。近世の初期、東境となっていた利根川の流路が廃絶されてからは、境界はさらに東の江戸川に移り、下総の一部を加えることになったのである。

 延喜式制定の時代においても、国は大国・上国・中国・小国の四等に分かれ、武蔵国は大国の中に数えられていた。その所管は、久良・多摩・橘樹・都筑・荏原・豊島・足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父の二十一郡にのぼり、その国府は、多摩郡の府中におかれていた。

 このように武蔵国は大国であって、その領するところも広く、人口は十四、五万と算定されている。その開墾(かいこん)田数も、『倭名類聚抄』によれば、三万五千五百七十四町とあり、関東地方では常陸に次いで第二位を占めている。もと空閑地の多かった武蔵国も、奈良朝時代に帰化人を多く移して開墾させた結果、他国に劣らないまでに開発されたことが推測される。

 この田地から収穫の一部を国に納めるのを租(そ)といい、これは国衙の処分とされていた。租は稲で収めたもので、これは正税・公廨・雑稲の三種に分けられていた。正税は国の諸般の用に供するもので、公廨は正税に欠損、未納を生じたときに補填(ほてん)する用に供し、その残額を国司が分配するもので、雑稲は種々の別会計の用に供したものである。

 『延喜式』によると武蔵国の正税四十万束(たば)、公廨四十万束、雑稲の合計三十一万三千七百五十四束となっている。これを関東地方の諸国に比べると、常陸は武蔵よりも正税・公廨が各十万束多くて関東地方の第一位を占め、上総・下総の二国は武蔵とほぼ同数で、第二位に位している。武蔵の雑稲を細別すると国分寺料五万束、薬師寺料四万二千束、梵釈四王料七千七百束、文殊会料二千束、薬分料一万束、修理池溝料四万束、救急料十二万束、悲田料四千五百束、俘囚(ふしゅう)料三万束、勅旨繫飼(けいし)御馬秣(まぐさ)料二千二十束、神崎牧牛直五千五百三十四束となる。当時において束とは稲を量る単位であって、一束を籾(もみ)とすると一斗となり、米にすると五升になる。国が百姓から徴収するものには、前記の租の外に、調(ちょう)と庸(よう)とがある。調は戸別割の税であって、その国の特産物を取り、庸は夫役(ふえき)であるが、多くの場合は物品で代納していた。調と庸はともに国で処分することなく、これを京都に運んで中央政府の用度にあてた。

 『延喜式』によれば、武蔵国の調は、緋帛六十疋(ぴき)・黄帛一百疋・橡(しょう)帛二十五疋・紺布九十端(たん)・縹布(ひょうふ)五十端、黄布四十端で、その他は絁(つむぎ)・布を納めさせ、庸は布を上納させ、そのうち、男の作物としては、麻五百斤および紙・木綿・紅花・茜(あかね)を指定している。

 なほ国が準備して京都に運送するものには、右にあげた調庸のほか、年料舂米(しょうまい)・年料租舂米・交易雑物、交易雑器・年料雑器・年料別貢雑物・年料別納租穀・貢蘇・年料雑薬などがある。

 これらのものは国が正税を用いて準備し、あるいは正税をもって農民から買い上げるものであって、調庸とは異なるものである。また輸送に際しても、調庸の場合には農民を使役するに反し、これなどの貢進雑物の場合には、農民を雇庸するのである。

 武蔵国から貢進するものと定められていたものは、次に示すようなもので、これもまた武蔵の国勢を知るよすがとなろう。

 交易雑物として、武蔵国が献上したものは、絁(絹)五十疋・布一千五百端・商布一万一千一百端・鼓六石五斗・竜鬢席(りゅうびんむしろ)三十枚・細貫席三十枚・席五百枚・履料牛皮二枚・鞦(しりがい)二十具・鹿革六十張・鹿皮十五張・紫草三千二百斤・木綿四百七十斤・櫑子(らいし)四合で、交易雑器および、年料雑器は武蔵国はこれを貢上せず、年料別貢雑物としては、筆一百管・膠(にかわ)五十斤・麻黄五斤・麻子六斗を貢上し、年料別細租穀としては一万二千石を京進し、貢蘇は二十壺を進上する規定である。

 蘇とは牛乳一斗を煎じて、一升を得る所の一種の乳製品である。また諸国は年料雑薬を典薬寮に進上する規定であるが、武蔵国の分は薬草二十八種と定められていた。また武蔵国には特に左馬寮の御牧があって、毎年御馬五十匹を貢上する規定となっていた。