二 武蔵七党

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 このようなことから武蔵国でも各地に豪族が割拠して、みなそれぞれに一族一党をなし、たがいに勢力を拡大していった。中でも有力な豪族に武蔵七党とよばれるものがあった。これらの諸豪族はいずれも当時一流の家系を誇った地方官が土着し、それぞれの地方に開拓された荘園を根拠として武力をたくわえ、武士団を形成していったものである。当時これらの武士団を党とよび、各党は数十の小族にわかれながら、同族的な統合をなし、戦場では一党として戦った。

 七党の数え方は必ずしも一定していないが、『武蔵七党系図』によれば次のようである。

 横山党 小野篁から出ている。篁七世の孫孝泰が武蔵守となって下向し、横山の地を開墾して土着した。その子義孝は武蔵権介となり、また横山大夫とも称した。これが横山氏の祖先である。横山は今の八王子付近の地名である。

 猪俣党 横山党と同族である。武蔵守孝泰第三子時資が武蔵介となり、その子時範が埼玉の児玉郡猪俣に住み、独立して猪俣を名乗った。

 野与党 上総介兼武蔵押領使であった平忠常の出である。千葉胤宗の子基宗が武蔵野与の荘司となり、子孫がその地に住んで野与氏を称した。野与は埼玉郡の中にあったもののようである。

 村山党 野与党と同族である。基宗の子、野与基永の弟頼任が北多摩郡の村山に拠(よ)ったもので、村山は狭山丘陵付近の平原である。

 西党 日野宗頼が武蔵守となって以来子孫が土着し、立川、日野、七生一帯を根拠とした。府中の西部を占めたのでこの称がある。

 児玉党 藤原惟行が武蔵守となって土着し、埼玉の児玉郡付近に庄を開いた。惟行の子経行、その子孫は豊前守となり、安芸に所領を有し、戦国時代には毛利氏に属し、のちの児玉男爵家はその子孫という。

 丹党 丹比県守およびその弟広足が武蔵守となり、土着するにいたって、旧姓をそのまま使用した。秩父横瀬村一帯がその庄であった。

 これらはいずれも関東に赴任した国司や押領使らの地方官の子孫が土着し、武蔵に勢力をえた豪族たちであるが、これら七党以外にもしだいに頭角を現わしてきたものが少なくない。すなわち武蔵守平良文の子忠頼は、父についで村岡の地を開き(村岡は大里郡にあり、いまの熊谷・久下付近である)、平将門を討って功あり、武蔵押領使や陸奥守となり、その子将常も武蔵権守となり、子孫もまた武蔵に栄えた。

 秩父、千葉、豊島、葛西、畠山、河越、江戸の各氏はその流れであり、のちに頼朝の挙兵に参加して軍功が多かった。

 箕田氏は源融(とおる)の孫、仕(つかう)が武蔵守となり、足立郡箕田におり箕田氏と称した(北足立郡鴻巣町付近に箕田村がある)。仕の子は箕田源次宛(あつし)といい、その子を綱(つな)という。綱は渡辺氏を称し、源頼光の四天王の第一に数えられ、剛勇をもって知られた武士である。

 前述のようにこれらの豪族は、同族間に主従関係が発生し、家の子、郎党という。これらは武家社会の一族ならびに家臣を総称するものであるが、本来は区別される性質のものである。家の子は家門、一族の称で、嫡流たる総領に対し、庶流、族(やから)とよばれ、郎党は所領を持たない従者の意で、郎従ともよばれた。この郎党の数は、年を経て非常に多いものとなっていった。

 『今昔物語』によれば、前記村岡の五郎良文と箕田の源次宛が戦う話がある。二人ともに武勇をもって鳴り、おのおの数百騎の郎党を養っていたが、あるとき中傷するものがあって良文にいう「宛は常に良文は我が敵にあらず」と。良文はこれを聞いておおいに怒り、宛と雌雄を決しようとし、おのおの五百騎をひきいて草原に対峙(たいじ)した。時に良文が宛に告げていうに「互いに郎党をひきいて戦うのも興がない故、二人だけで戦おう。」と。宛もこれに同意して、おのおの強弓をもって矢を射、戦いは数十合におよんだが、互いによくこれをはずしてついに引き分けとなった。これによってもおよそ、当時の郎党の数や勢力がどの程度であったか推察できよう。