武蔵武士は、それが源氏の一族であると否とにかかわらず、多くの源氏累代の恩顧を受けたものである。源氏は古くから東国の守・介に任ぜられていた。清和天皇の第六皇子貞純親王の長子経基は、朱雀天皇承平年中(九三一-九三七)に武蔵介となり、鎮守府将軍に任ぜられた。その子満仲は、常陸介より武蔵守となり、また、陸奥守兼鎮守府将軍となった。満仲の子頼信は、相模守・陸奥守兼鎮守府将軍となり、その子頼義・義家父子相つぎ五代百八十年間、東国にその勢力をつちかったのである。
時に長元元年(一〇二八)、前上総介平忠常が安房守惟忠を殺して乱を起こし、以後三年にわたって、安房に君臨した。朝廷では検非違使平直方に追討を命じたが失敗に終り、さらに頼信を派遣したので、忠常は戦わずして頼信に降った。この事件は源氏の東国進出に絶好の機会となった。乱を平定した源氏の勢望は高まり、源氏と東国武士との結びつきは固くなった。
ついで義家のときには「前九年、後三年の役」が相ついで起こり、その間にも主従関係が強く結ばれ、源氏諸族は東国各地にその根を深くおろしていった。<これにまつわる当地方の語り伝えとして白旗塚、矢納め弁天・六月町炎天寺などの由来がある>(第八章風俗と文化参照)
また、保元・平治の乱にも武蔵武士の多くが源氏にしたがって参戦している。
『保元物語』。巻之一、主上三条殿行幸の事附官軍勢汰の事。十一日寅の刻に、官軍既に院の御所へ押し寄する。折節東国より軍勢上り合ひて、義朝に相従ふ兵多かりけり。先ず鎌田ノ次郎正清を始めとして、武蔵には豊島四郎、中条新五新六、成田太郎、箱田次郎、河上三郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎、長井斎藤別当実盛、同じき三郎実員、横山悪次悪五、平山相原、児玉に荘太郎、猪俣に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠、山口六郎、仙波七郎、高家に河越、師岡、秩父武者、
『平治物語』巻之一。源氏勢汰の事。
武蔵国には、長井斎藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重、金子十郎家忠、足立右馬允遠元。
これによって東国武士、特に武蔵七党との関係が深かったことがうかがわれる。
さて平治の乱を境として、源平二氏の勢力は、あきらかに源氏の衰退と平氏の抬頭(たいとう)を決定的にした。
しかし、平清盛とその一族が宮廷に専制的な勢力を伸長するにともなって、各方面の反感もいちじるしくなり、それが結局平氏の没落を早める結果となった。