永暦元年(一一六〇)三月、伊豆に流されていた義朝の嫡子頼朝に、以仁王から平氏追討の令旨がくだった。
治承四年(一一八〇)八月、北条時政の助けをえて、伊豆を発した頼朝は相模にはいり、石橋山に陣して大庭景親三千の軍と交戦する。しかし、戦局はたちまち不利に見まわれ、真鶴岬から舟にのって安房にのがれ、勢力の挽回(ばんかい)をはかることにした。安房にわたった頼朝の手勢は、当初わずかに三百余騎であったという。
ここにおいて頼朝は各地の豪族に使を遣わし、檄(げき)をとばして兵力の獲得に奔走した。まもなく千葉常胤、広常などの援軍をえて、その勢力は二万余騎となり形勢はにわかに好転のきざしを見せはじめた。かれらは急きょ軍勢を催して房総を北上し、下総から武蔵に向った。
しかし、隅田の沿岸に迫った頼朝の軍勢の前には、まだ前途を予測しえない強力な豪族たちが存在していた。それは「八箇国の大福長者」といわれた江戸太郎重長をはじめとして、河越太郎重頼、畠山重忠など、坂東八平家の流れをくむ屈強の豪族たちである。かれらは平家の一門に旧来の恩義を感じ、石橋山の合戦の折にも、大庭景親に呼応して、源家の豪族、三浦介義明のたてこもる衣笠城を攻略していた。
『東艦』抜萃
「治承四年八月二十六日、武蔵国畠山次郎重忠、且つは平氏重恩に報んため、且つは由井浦の会稽を雪がんため、三浦の輩を襲はんと欲し、仍(よっ)て当国党々を相具し来会すべき由、河越太郎重頼に触(ふれ)遣はす。江戸太郎重長同じく与す。今日卯刻此事三浦に風聞するの間、一族悉く当所(三浦)衣笠城に引籠り各陣を張る。辰刻(たつどき)に及び河越太郎重頼、中山次郎重実、江戸太郎重長、金子、村山輩已下(いげ)数千騎攻め来る。義澄等相戦ふと雖(いえども)、昨今両日合戦に力疲れ矢尽き、半更(こう)に臨み城を捨て逃去る。同二十七日、三浦介義明、河越太郎重頼、江戸太郎重長の為に討取らる。」
してみれば、頼朝にとって江戸太郎は当面の仇敵ともいうべく、また鎌倉への進出を阻む一大障害でもあった。江戸氏を攻め破ってとおるか、あるいはほかに思案を講ずるか、隅田川を前にして、頼朝もその態度をすぐには決しかねたようである。幸いにして葛西清重などの取りなしによって、ことは平和のうちに進展し、江戸氏も頼朝に従ってその西進を助けたのであった。
かくて豊島清光、葛西清重、足立遠元をはじめとし、畠山重忠、江戸重長などいずれ劣らぬ武蔵武士の面面をその麾下(きか)に加え、まさに昇天の勢いとなった。
『東艦』抜萃
「治承四年九月二十八日、御使を遣はし江戸太郎重長を召さる。景親の催により石橋合戦を遂ぐ、其の謂ありと雖、令旨を守り相従ひ奉るべし。重能、有重折節上京。武蔵国に於ては当時汝已に棟梁たり、専ら恃み思食さるるの上は便宜勇士等を催具し予参すべきの由云々。
治承四年十月二日、頼朝、常胤広常等之舟楫に相乗り、大井隅田両河を濟(わた)り精兵三万余騎に及び武蔵国に赴く。豊島権守清元、葛西三郎清重等最前参上。又足立右馬允遠元、兼て命を受くるに依て御迎となりて参向す。又頼朝御乳母の子八田武者宗綱息女、鐘愛の末子を相具し隅田宿に参向す。」
(注)この隅田宿の所在については諸説あり、当足立区蒲原町、墨田区隅田町、浅草花川戸などがあげられている。なお、大井河は今の江戸川である。
武蔵にはいった頼朝の軍勢は一路鎌倉に進んだ。そのときすでに平家の軍勢は平維盛を将とし、薩摩守忠度、参河守知度などをひきいて東に向かっていた。両者の対戦が有名な富士川の戦であるが、平家の軍勢は戦わずして敗走した。鎌倉にはいった頼朝は、御家人となった武蔵武士に、直ちに所領安堵の令を下して、人心の掌握をはかった。
『東鑑』治承四年十二月十四日の条には
「武蔵国の住人、多くは本知行、地主職を以て、本の如く執行すべきの由、下知を蒙る。北條殿並びに土肥次郎実平奉行となり邦通之を書下す」とある。
平家を滅ぼした文治元年(一一八五)には、大江広元の建議によって「諸国に守護、公領、荘園を問わず、地頭を設置し、御家人をもってこれにあてる。」ことを朝廷から許され、武家政権の基盤をかためた。そうして建久三年(一一九二)には征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開いて、武家政治をはじめたのである。