さて、武蔵国は伊豆・相模・上総・下総などとともに頼朝の分国(直轄地)となり、また、武蔵武士は御家人となって所領を安堵(あんど)され、幕府との結びつきはきわめて密接なものとなった。
特に、頼朝の挙兵に応じて戦功のあった豊島清元は豊島郡に、葛西清重は葛西郡に、足立右馬允遠元は足立郡に、畠山重忠は北武蔵、秩父、男衾、榛沢方面に、河越重頼は西武蔵、入間郡に、江戸重長は豊島、荏原郡にとそれぞれ勢力を有していた。中でも江戸氏は、頼朝から武蔵国の棟梁(とうりょう)と目され、早くから武蔵支配の沙汰を仰せつかっていた。
『東鑑』治承四年十月五日の条に
「武蔵国諸雑事等、在庁官人並に諸郡司等に仰せ沙汰致さしむべき旨、江戸太郎重長に仰せつけらる。」
とある。
一度頼朝の敵対者となった江戸氏にかかる知遇を与えたことは、頼朝の政策でもあったろうが、また同時に、それだけの実力を備えていたものであろうことがうかがわれる。江戸氏は重長の父重継から江戸荘を領有し、その後数代約二百年間にわたり、江戸の地を支配し、太田道灌に引き継がれることになる。
江戸氏の系図(続群書類従)をみると次のようである。
江戸氏は豊島、葛西、畠山などとともに、坂東平氏の流れをくむものであり、重綱の子重継にいたって秩父より独立、江戸氏を名のることになった。江戸氏の最盛期は重長時代といわれ、その領地は現在の千代田区を中心に台東区・文京区・新宿区・港区の一帯に及び、畠山氏の滅亡後は、その領地も兼ね併せたというから、相当の広範囲を領有していたものと思われる。また当時の江戸には、かなりの人家も集まり、繁昌もしていたと思われるが、具体的にそれを知る資料はない。
さて「八箇国の大福長者」といわれ、頼朝から武蔵の棟梁としての地位を与えられた江戸氏の繁栄は、なにに由来するものであろうか。もちろん、重継や重長の政治的、軍事的才腕の卓越していたことによるであろうが、広大な領地、肥沃な荘園を有していたことにもよろう。しかし、さらに一歩すすんで考えれば、水陸交通の要点に位し、交通・交易の要衝(ようしょう)としての地の利を占めていたこともその理由と考えられる。
『義経記』
「石浜と申所は、江戸太郎が知行所なり。をりふし西国船の着きたるを数千艘あつめ、三日の内に浮橋をたたみて云々」
これは頼朝の隅田川渡河のくだりに見えるところである。西国船がなんのために来着していたかは明らかにされないが、おそらく交易のためであろう。してみれば当時の石浜が、すでに西国船の発着をみるほどに発展し、港湾として各地の物産の交流に、大きな役割を果していたことがうかがわれる。
しかし、隆盛を誇った江戸氏もやがて一族の内紛によって衰亡し、その結果、江戸の地をはなれて、喜多見(現在の世田谷区内)に移り、かわって名将太田道灌の登場となる。
かくて頼朝は武蔵国の経略にみるとおり、江戸氏や豊嶋氏、川越氏、足立氏などに対していち早く所領を安堵し、御家人にとり立て、地頭職に補すなどして、その在地勢力をたくみに利用し、主従関係を強化して、その支配下にくみ入れていった。このような処置は東国支配、しいては武家政権の確立に、大きな成功をもたらす原因となった。
また武蔵国は幕府の知行国であるので、諸国に守護職をおかれたときも、当国には設置されず、ただ将軍家の一族や北条氏をもって武蔵守に任じ、もっぱら政務を担当させた。特に京都から将軍を迎えるにいたっては、表面将軍の知行所となったが、実情は北条氏が国守に就任して、当国を制御していった。
幕府の知行国支配は、また経済開発に向っても進められていく。鎌倉時代を通じて、武蔵国の荒野の開拓にも積極的な対策が施されていった。
まず、幕府は武蔵国の田文の作成にのり出す。田文とは土地の調査書のことである。知行国支配の確立を図り、貢納賦課の実現を期すためには、耕地の実態把握が先決の要件であると考えたことによる。
『東鑑』正治元年(一一九九)十一月の条には
「武蔵国田文を整へらる。是故将軍(頼朝)の御時惣検を遂げらるるの後未だ田文の沙汰に及ばず」
とあり、頼朝によって行なわれた惣検がどの程度であったかは不明であるが、その後ひきつづき行なわれた田文には、支配体制への布石がしかれる手はじめとして見のがすことはできない。
ついで建永二年(一二〇七)三月二十日、幕府は武蔵野の荒野の開発を企図した。そしてこれには侍所の別当である大江広元を直接奉行の任にあたらせている。
また承元元年(一二〇七)にも時の武蔵守時房を通じ、各地頭に荒野の開発のふれが出された。それは広漠とした武蔵野の広野開発のことであり、まさに大事業といわざるをえない。
一方、これに歩を合わせるように灌漑、治水の事業も行なわれた。仁治二年(一二四一)幕府では、武蔵野に水田を開くことを議定し、多摩川から灌漑の水をひくことにした。
『東鑑』同年十二月二十四日には
「多摩川の堰上を堀通し、其流を武蔵野に出し、水田を開くべきこと施行既に訖(おわ)りぬ。栢間左衛門尉等を奉行となし今日彼国に下向せしむ。」
とみえている。
また、一方治水事業として太田庄の堤を修理したり、榑沼(くれぬま)堤を補修したりしている記録もみえる。かかる一連の開発事業と同時に幕府に対する勲功の賞として、御家人に荒野を与え、その開発を促したのである。
さて、当時この地方における農作物には、米・麦・粟などのほかに桑・藍(あい)などもつくられていた。藍は染料として使用され、染められた糸・綿などは鎌倉へ貢納され、さらに京都御所にも進納された。武蔵国にも染殿・糸所が設けられ、別当職が置かれていた。
『東鑑』建久六年(一一九五)七月二十八日の条に次ぎのようにある。
「武蔵国染殿別当事、安房の上野局に仰せ付けらる。糸所別当の事、近衛局之を奉る。」