六 足立に関係ある有力武士

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 次に武蔵武士中、足立にゆかりのある武士の記録を一、二あげてみる。


 足立右馬允遠元 足立右馬允遠元と源氏との関係はきわめて深い。遠元は早くから源氏に服し、平治の乱にはすでに義朝に従って参戦している。

 『平治物語』巻之二待賢門の軍附信頼落つる事。

 義朝これを見て「悪源太はなきか。信頼という大臆病人が、待賢門を早破られつるぞや。かの敵追出せ。」と宣ひければ、「承り候」とて駆けられたり。続く兵には、鎌田兵衛、後藤兵衛、佐々木源三、波多次郎、三浦荒次郎、須藤刑部、長井斎藤別当、岡部六弥太、猪俣小平太、熊谷次郎、平山武者所、金子十郎、足立右馬允、上総介八郎、関次郎、片桐八郎大夫、以上十七騎轡をならべて馳せ向ふ。

 また頼朝挙兵の折りにもいち早く召に応じてその麾下に馳せ参じた。

 『東鑑』治承四年十月二日

足立右馬允遠元、兼て命を受くるに依て御迎となりて参向す云々

そして同十月八日

 足立右馬允遠元、日来有労の上、最前召に応じ参上せしにより、邦郷を領掌すること違失あるべからざる旨仰せらる。

 石橋山の合戦に一敗地にまみれた頼朝が再起を図る挙兵に、とるものもとり敢えず馳せ参ずる遠元の心境。頼朝も遠元の忠節に対しては深く感動するところがあったと思われる。

 その労をねぎらって邦郷の領掌に違失なきようにとのねんごろな仰せが出されたのである。

 さて、足立氏の系図をしらべると諸説がある。

 『丹波志』によれば、遠元の父は大職冠鎌足十五代の孫遠兼といい、足立郡の領主職であり、遠元のときに地頭職に補せられ、足立氏を名乗ることになる。遠元は、また武勇にすぐれ、頼朝、頼家二代にわたって、その師範をつとめたことがみえている。遠元の子を遠光といい、その子は遠政又左衛門尉といい、このときに所領を替えられ、丹波国氷上郡佐治郷を賜わり、山垣村に移り住むことになったという。

 また『尊卑分脈』によれば


とあり、あるいはこの遠基が遠元であり、そして安達と足立は同音のため誤りしるされたものであろうともいわれるが、これは早急には決しかねる。

 遠元の屋敷跡は桶川宿にあり、今そこには石の祠がたてられ、屋敷跡と思われるところから武器、陶器などが掘り出されたという。


 矢古宇氏(八国府氏) 武蔵七党系図の横山党祖資隆の子に野五郎忠兼があり、その子田尾三郎師兼、その子師義が、足立郡矢古宇に住み、はじめて八国府五郎と称し、この地方の荘園を領有して武蔵武士となった。矢古宇はもと草加町の大字名となっていたが、当時はその領有区域がこの区にもおよんだと思われ、『東鑑』建長八年(一一九七)六月二日の条に、矢古宇右衛門次郎の名があり、鎌倉幕府の家人として伝わったと見られる。


 沼田氏 沼田四郎。『東鑑』の嘉禄二年(一二二六)四月二十日の条に

御所中騒動、武蔵国御家人沼田四郎父子向井太郎父子忽起二闘諍一互殺害、聊有二宿意一

と見えているが、沼田四郎は足立郡沼田の人で、当所に住した武蔵武士が鎌倉幕府に仕えて家人になっていたものである。


 鳩谷氏 鳩谷重元。同じく『東鑑』に仁治四年(一二四三)三月十二日の条に

   被レ行二臨時…評定一、鳩谷兵衛尉重元参、其砌有二庭中言上事一、是就二武蔵国足立郡内鳩谷地頭職事一、先日出二懸物一押書記、締己明之上可二執申一之由、雖二之墾望一、奉行人不二許容一云々

と見えている。また建長八年(一二五六)六月二日の条に、鳩井兵衛尉の名が見えているが、この地方の地頭職に関連した鳩谷在住の武士である。


 梅田氏 (志田三郎義広と梅田明王院)

 元禄六年(一六九三)二月、梅田明王院住僧快尊の記録によれば「六条判官源為義の三男、志田三郎義広が常陸より当所榎戸に移り、一寺を建立して祈願所とした。後に義広は源頼朝に敵対して、小山判官朝政のために攻められて逐電したが、後三世の孫義純なるもの当所に来住し、その孫常陸介久広が天満宮を祀り、氏を梅田と改めた。」と記している。