板碑と同じ傾向に属す信仰形式の一つに、経塚と呼ばれる経典埋蔵の風習がある。たまたま本区内からもその経塚が発見された。伊興町応現寺の境内の一角から、兜(かぶと)・経筒・六器・五鈷鈴(ごこれい)などが出土し、これといっしょに掘り出されている。この兜は古代から中世へ移る間の経過をとどめているものとして重要な資料であり、現在経筒、六器などとともに国立東京博物館に保存されている。
さて経塚の造営は、弥勒(みろく)出世と呼ばれる仏教輪廻(りんね)の思想から生み出されたものであって、仏法の変遷と世想の推移に関する一種の予言である。これには諸説あるが、一般には釈迦の没後一千年(五百年説もあり)は正法の時代と呼ばれ、仏法が正しく護持される時であり、その後の一千年間は像法の時代で、形式的な維持が図られるだけであり、その後一万年は末法で仏教の衰退と混乱とが続く滅法の時代であるとする。
『扶桑略記』や『神明鏡』などでは後冷泉天皇永承六年(一〇五一)をもって末法にはいったものとしている。藤原末期以降は正しく末法期を迎えていたと考えられ、これが不思議にも当時の世相に適合して、次つぎと事実の上に現れてきた。当時の人びとには、末法到来という予言が、事実となってひしひしと心にこたえるものがあった。絶間ない戦乱と、打ち続く災変とに、この世はいかになりいくことであろうと、安らかな心もなかった。『愚管抄』に
サテモコノ世ノカハリノ継目ニ生レアヒテ、世ノ中ノ目ノマヘニカハリヌル事ヲカクケザケザトミ侍ル事コソ世ニアハレニモアサマシクオモホユレ
とある。そのために仏法をいかに護持するかということが、僧侶、信者の間に真剣に考えられ、結局それが経典を秘匿(ひとく)して、他日の布教に資するため経塚を築き、その中に経典を埋蔵するという、特異な風習が創案された。この場合の経典は法華経を写経したものに限定されていたようである。
板碑も経塚もいずれも仏教的末法思想のあらわれで、しかも中世的世情の特色である。