三 新田開発

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 封建制度下における支配者の経済生活は、その根源を土地の生産力に依存していた。したがってその生産力を増加させるための種々の方策が講ぜられていた。検地をはじめ、河川工事や用水路の改修、農業改良などはそれであるが、さらに積極的方策として、新田開発の保護奨励を行なった。戦国諸大名は、それぞれその国内においてこれの対策に努め、江戸時代に及んでは、幕府も諸大名も、さらにいっそうの力を注いだ。特に幕府や諸藩の財政が、一般に行詰るようになってからは、活発な努力が払われるようになり、開墾地は急激な増加を見るにいたった。

 さて、江戸時代になって開墾された土地は、多く新田の名をもって呼ばれているが、もともと新田の字義は本田に対してのものである。

 これを時代的に概括すると、本田は普通、文禄検地以前のものをさし、新田は主として、慶長以後になって開発された田・畑・屋敷をさすのが通例である。江戸時代には、幕府は本田を、租税課徴の基礎をなすものとして重視し、時に雑穀を作ることさえ禁止したが、新田にはその制限は適用されなかった。しかしこの時代における新田の持つ意義を見のがしてはならない。新田は本田に対して、重要性の程度からいえば、第二次的に取り扱われたが、しかし一つには、年貢米の増収を図り、武家層の財政の窮乏を救うもとであり、二つには、本田に栽培しえない雑穀を手作する場所として、あるいは特種な作物を栽培して、時代人の嗜好満足させるなどの特質を持っていた。ゆえに新田開発の保護奨励は、幕府をはじめ、全国諸侯こぞってこれに努めた。これを検地目録によってみても、慶長三年(一五九八)には総石高千八百五十万石余に対し、元禄年中二千五百七十八万石、天保五年(一八三四)三千四十三万石、明治四年(一八七一)三千一百六十一万石という数字によって、新田増加のいちじるしい傾向を察することができる。新田の種類は標準の立て方によっていろいろの類型に分けることができるが、開墾企業の主体からいえば、公営新田と民営新田とに分かれ、開墾の方法についていえば、見立新田、請負新田などと分けることができる。そのなかで、見立新田には、普通の見立新田と代官見立新田とがあり、請負新田には、村受新田、寺社新田、町人請負新田などがある。代官見立新田は公営新田であり、代官が主体になって適当な地域を見立てて開墾する新田であり、普通の見立新田の場合は、農民が主体となり、本田畑の地続きの地域を開墾して、新田をつくるものである。これらは主として個人企業に属すが、さらに大規模に集団的企業として行なう場合が、請負新田である。村受新田は、村が事業主体となり、寺社請負新田は寺社が、町人請負新田は町人が事業の主体となって資本を出し、あるいは労働力を雇用して、新田を開発するのである。区内の新田は、この意味からは、普通の見立新田に属すものが大多数である。