封建支配者にとって、土地開発の必要性は上述のようであるが、そのためこれを保護奨励する目的で、一般に行なわれたのが年貢諸役の免除であった。年貢の免除期間は、時によりところによって長短一様ではなかった。短かいので一年、それから二年、三年に及ぶものもあった。大谷田新田、北三谷新田の新田開発は、田一年、畑二年の例である。
ただしこの場合田畑の年貢に代り、野銭を納めることになっていた。またところによっては田を切り開いても当初は畑年貢として、のち田年貢に切りかえて行なったところもある。また一般に新田開発地が、新村として成立するようになった場合には、当分の間諸役も免除となったのが普通である。それは短かくて四、五年、長い時は十五年間に及ぶものもある。いうまでもなく開発事業には多くの困難が伴うものであるから、支配者としては、これの保護奨励の意味をもって、年貢諸役の免除を行なったのは当然なことである。
なおまたその上に開発の責任者として、功労のあったものに対しては、特別に諸種の褒賞の出されることもあった。開発の責任者となるには、ある程度の資本や労働力を持ち、あるいは統率力を備えたものであり、現地の事業に通じたものとされていた。この意味から、多く名主百姓などがこれにあたったようであるが、しかしまた浪人百姓などが、開発責任者となった場合も少なくない。かれらは主家の没落などにより、往年の支配者層から顛落(てんらく)して土着し、百姓の間に重きをなし、新規開発の責任者としての可能性を持っていた。区内開発の状況を見るに、これら名主百姓や浪人百姓の開発によると見られるものが多い。
そのほか、時には村民合体の共同責任として、これにあたった場合もあろうし、のちにいたっては、しだいに財力を得てきた町人達が、その資力をもって、開発を請負った場合もあろう。いずれにしてもその開発が功を奏した場合、特別の恩典が付与されるのが常例であった。
区内では、北三谷新田や掃部宿にその例を示す文書が残っている。
北三谷新田の肝煎(きもいり)として、開発に功労のあった河合平内に対し、元和五年(一六一九)郡代伊奈半十郎からくだされた文書には、次のようなものがある。
出置新田の事
一、田畠弐町歩居屋敷共、淵江之内北山野新田ニ而芝原之所を屋敷分ニ其方ニ出置候、開候テ作可仕候、是は其方肝煎故北さんや谷原過分ニ田畠ニ為開御忠節申上候ニ付而如此出シ候、猶弥精ヲ入開発可申候、於其儀者申上重而御褒美申請可仕候、先屋敷分ニ右田畠出置者也、仍如件。
元和五年丁未夘月七日
伊奈半十郎(花押)
河合平内殿
これによれば、肝煎(きもいり)(監督指導)たる河合平内に田畑開発の功として、北三谷新田の芝原の地を田畑二町歩屋敷分として与えられてをり、猶精を入れて開発すれば、重ねて褒美を授ける由が言い出されている。
また元和三年(一六一七)千住掃部宿開発の功労者石出掃部介にくだされた文書によれば
石出掃部介拝領墨付
其方儀元木村千住宿開発並荒川橋造、其外今般水除之大堤築立候事、上様御喜色之御事候、
且昨春御鷲狩之砌御成先にて千住一円拝領被仰付候事可為家之面目、猶子孫受領尤候旨御意候也
元和三年巳七月
松前隼人正入道
大久保相模守忠隣
とあり、功労により千住一円を賜っている。これらはまた年貢諸役の免除とともに、新田開発に対する保護奨励の一端というべきである。