五人組制度は天文年間以前に生れていたといわれる。すなわち「五人組の名称は何時代に始まれるかは未だこれを詳にすること能はずと雖も、武家名目抄に引用せる由良家伝記の中の天文五年の百姓御仕置御法度中に庄屋五人組の名称見之云々」と故穂積博士著の『五人組制度論』に見える。
豊臣時代になって近隣の団結をますます強固にし、社会を再編成しようとするに至って、郷村制度もしだいに面目を一新して、武士の間では五人組、下人の間では十人組制度が採用されることになった。政権が徳川氏の手に移ってからも、徳川幕府の諸制度は、豊臣氏のそれを模倣したものが少なくなかった。その五人組制度を必要とした時代的背景も、この二つの時代に異るところがなかった。それはまず、第一に浪人取り締まりのためであり、第二には、当時邪教とされたキリシタンを絶滅するための強化取り締まりであった。かくて江戸時代にはいって、五人組制度が治安維持の目的のもとに、おおいに為政者によって利用された。
『徳川禁令考』に収める「関東中悪党御制禁」にも見えるように、このころには、五人組が制度化されていたようである。もちろんこの制度は、もっぱら幕府領についてであるが、大名領においても、大名は幕府の根本方針にならうのを常としていたので、このころに五人組制度は確立したと見られる。
五人組制度が、治安と維持を目的として作られたということは、真の意味における隣保共助を目的とする団体ではなく、多分に警察的目的であったから、上から下へ押し付けて作られたものである。しかし徳川初期を経て徳川中期以降になると、その性格がよほどかわってきた。それは実にこの五人組制度が教化主義的、隣保的な団体になっていったことである。それは慶安二年(一六四九)二月二十六日に諸国の郷村へ触出した、全文三十二か条からなる有名な「慶安の触書」によって知ることができる。すなわちその最後の第三十二条に、父母に孝養をつくし、兄弟親類仲よく暮すべきことが強調されており、教化主義思想の潜んでいることが看取される。