宗門帳に関係ある文書として人別送状および人別引取状がある。すでに村々に一種の戸籍帳ともいうべき、宗門人別帳がある上は、人口の出入あるごとに、その帳簿を訂正する必要があり、ここにいう人別送状および人別引取状は、村の戸籍の出入を正すためと、宗門改めとを兼ねたもので、たとえば、人別送状には「人別送り一札之事」と記し、今般当村の何某は、貴村の何某の伜某へ嫁すことになったが、右は当村何々寺の信徒に相違なきにつき、承知せられ度しとの意を書き、人別引取状には、「取引一札之事」と記し、その婚礼を調べた上、貴村の何某の娘を、宗門人別帳より除かれ度く、当村の宗門人別帳面に加入した旨、名主が返書したもので、左記がその例である。
人別送り一札之事
女子誰
何才
右之者組下何某娘、何村何某殿仲立ヲ以、其御村何某之嫁縁組差出シ申候然ル上ハ村方人別帳面相除キ申候間、其御村御帳面ニ御加入可被成為後日送り一札仍如件
年 月 日
武州足立郡何村
名主 何某
何領下何村御役人衆中
に対し、人別引取状には
引取一札之事
一 其御組下百姓何某娘誰何某仲立ニ而私組下内誰嫁ニ貰請、婚礼相調申候、然上者其御組御宗門人別帳面御除可被成候、此方宗門人別帳面ニ加入致候、依之引取一札差出申所如件
何領何村
名主 何某
何村御役人衆中
なお、足立区の当時の資料として
「安政六未年三月、東叡山領伊興村、人別送請取」一綴が常田信平氏(伊興町在住)宅に所蔵されている。この綴りは縦約二一センチ、横一五センチ、深さ(外法)四センチの結紐付の「人別送、伊興村」と表書れた手箱に入れてあり、おそらく状使などに持参させて、人別送りの請取を書かせたものであろう。遠方の場合はなんらかの方法で、別に請取をしたためて、伊興村名主常田氏に届けられたものらしい。これは安政六年(一八五九)三月から、明治四年(一八七一)六、七月ごろ(明治五年いわゆる壬申戸籍調査実施前)までに至る約十三年間の貴重な記録である。前項「引取一札之事」(人別引取状)を簡略にした「覚え」であろうか。その一例を示すと、
「例一」
覚
亀治郎
一 人別送り 壱通
右之通慥ニ受取申候 以上
(安政六年)未三月
花又村
名主 三次郎 (印)
「例二」
覚
武州足立郡
伊興村
組頭 新左衛門娘
きん
酉廿三才
右之者人別送り書壱通
慥 請取申侯以上
(万延二年、後改元文久元年)
酉
足立郡下谷塚町
名主 国三郎 (印)
二月三日
右村
御名主中
「例三」
覚
たき
右之者人別送り 壱通
慥ニ受取申候 以上
御料所
伊興村
名主 (印)
(慶応二年)
寅
五月六日
「例四」
覚
一 弥平次娘
宇多
右之者壱ヶ年季奉公中送籍
慥ニ取受申候 以上
栗原村
名主 (印)
(明治四年)
辛
未二月廿三日
右のようであるが、細かに内容を調べて見ると、次の計になる。
自安政六年三月 (内訳)
至明治元年十一月 性別
転出件数 七十五件 男 十九人
女 五十八人
転出人数 八十六人 不明 九人
自明治二年三月 (内訳)
至明治四年六、七月頃 性別
転出件数 二十八件 男 十人
女 十八人
転出人数 三十五人 不明 七人
なお、右十三年間の転出者は百三件、百二十一人となり、一か年平均五・三人の割となり、その内訳は男二十九人、女七十六人、不明十六人となる。そして男よりも女が多いのは、おそらく嫁とか奉公に出たからであろう。なぜならば、年齢記入の者はその年齢が若いからである。男も婿とか奉公もあるであろうが、中にはいわゆる一家を構成しているものがあるようだから、転居もあったようである。また「例四」の文面にあるごとく、明治四年からは「送籍」の文字が使用されている。