一般旅客の宿泊する旅籠屋には、平旅籠屋(百姓旅籠)と食売旅籠屋の別があった。飯盛女すなわち食売女を抱えている食売旅籠屋には、家屋の大小によって、その間口五、六間以上の広旅籠と、それ以下の小間旅籠があった。千住宿は単なる宿場以外に江戸後期では、江戸近郊の遊里として発達したので、食売旅籠屋が多く、飯盛女も寛文年間から一軒に付二人あて許可されたが、しだいにその規則は破られ、その数を増し、享保三年(一七一八)十月「道中筋旅籠屋の食売女、近年猥リニ人多有レ之由ニ候。向後江戸十里道中筋ニハ、古来之通旅籠屋一軒ニ食売女二人宛の外堅く差置せ申間敷候。十里外之道中筋旅籠屋も右に準じ可レ申候。」と取締令が布告された。そして明和元年(一七六四)板橋宿とともに宿内飯盛女百五十人まで、時の道中奉行安藤弾正少弼より許可され、天保二年(一八三一)五月には道中奉行曽我豊後守より旅籠屋への芸子立入が許可になり、遊里的風潮を増加した。安政七年(一八六〇)三月『宗門人別書上帳』によると、千住二丁目だけでも「旅籠屋貞七抱下女二十八名同庄兵衛抱下女十名」などと記載されており、その一班を知ることができる。旅籠屋の総数は前記『天保書上帳』によると五十五軒とあり、内大四軒・中三十四軒・小十七軒と区分されている。いずれも千住一丁目から四丁目までの街道筋にあり、その主なものは『岡場所考』によると次のようである。
「 千住一丁目 はたご
千住一丁目
新山本・清水屋・亀田屋・亀屋・つちや・大和屋・鶴本(天保九戌閏四月七日見世開鮫ヶ橋より引移)
千住二丁目
池田屋・大升屋・かたばみや・大黒屋本店・大黒屋出店・小はやし・胡粉屋・笑寿や・松むら・大住屋・井戸屋・わたや・住よしや・杉本や・竹屋・山本・高はし・松田屋・鶴中田屋・中田屋(本陣)。
千住三丁目
金子屋・深本屋・駿河屋。
千住四丁目
松葉屋。
計三拾壱軒。
小塚原町、中村町
大升屋・ますや・たけや・万屋・まつ村・若林・近江屋・伊勢屋・信濃屋(根津より引移)角茶屋・きりや・山田屋・するがや(千住三丁目出店)・堺屋・梅本。
計十四軒
となっている。
また前記山崎氏覚書によると
「平旅籠は一丁目問屋場附近に多くあり伊勢勘、伊勢甚、橋本、中屋、下野屋、玉川、藤屋、仙台屋、倉屋等なり。」
「食売旅籠(遊女屋)は全盛時代一、二、三丁目にて三十六軒あり主なる者丸屋、大柳、広瀬屋、新山、豊田屋、大塚屋、亀田屋、松島、相模屋、大和屋、東屋、田原屋、恵比須屋、大住、柏屋、大黒屋、つちや、谷本、小林、岩附、下総屋、中田屋、佐野屋、泉屋、松村、角花、住吉、山崎、佃屋、竹東、松本等なり。最も全盛なるは中田屋、竹東、相模等なり、其の頃の歌に、一に中田や、二に竹東、三に相模屋云云」
とあり盛況であったことがしのばれる。
それの内中屋六右衛門(現千住一丁目三三、四番地)方は有名な千住の酒合戦の行なわれたところで、文化十二年(一八一五)十二月二十一日、当家の隠居、通人「中六」が主催して同日正午から夕刻までに集った酒豪連によって丹頂鶴杯(三升入)緑毛亀杯(二升五合入)万寿無量杯(一升五合入)江の島杯(九合入)鎌倉杯(七合入)厳島杯(五合入)などの大杯を用いて、江戸から参じた蜀山人、亀田鵬斉、谷文晁、酒井抱一、千住の俳人巣兆などを判者として競われた。千住宿松勘九升一合、会津の人河田某六升一合、掃部宿市兵衛四升五合、女ではおいく、おぶん一升六合、また大門長治 水一升・醬油一升(?)・酒一升など驚くべき記録は番付として発表された。なお明治十年、明治天皇奥州巡幸の際御休息になったのは中田屋であり、随行の三条実美公はつちやで、木戸孝允は山崎方で休息された。諸大名の通行幅湊(ふくそう)した時は、両本陣だけでは収容しきれず、これら食売旅籠、平旅籠ともに御用旅籠として武家・公家が宿泊することがあった。これらの宿泊料は一般旅客の相対賃銭と違って、極めて低廉であったので、失費が多く迷惑なものであった。日光大法会などの大行事の際は助成金の下賜されることもあったが、これはまれなことであり、その金額も差少であった。前出文化十二年、家康公二百回忌大法会の助成金でも、本陣乙次郎は金十両に永百七十二文九分であるが、常吉以下の下宿旅籠屋十六軒は金一両一分二朱と永八十二文二分の下腸であり、また慶応二年の品川宿から当時の御用旅籠の賃銭答申書によると
一、紀州様御家中 泊 上下共 五百文 休 上下共 弐百四拾八文
一、尾州様同 泊 上下共 四百文 休 上下共 弐百文
一、水戸様同 泊 上下共 弐百四拾八文 休 上 百弐拾四文 下 百文
とあり、当時の普通宿賃(相対旅籠代)上泊一貫文中泊八百四十八文下泊七百文と比べて、最高の紀州家で半額、水戸家は四分の一であり、さらに二条御城番御組御与力、同心衆泊百文休四十八文などは普通宿銭の十分の一しか支払っていない。さらに旅籠屋にとって有難迷惑であったのは、当時の道中警察諸役人の無賃飲食、宿泊であった。権威に弱い商売であったが、遂にたまりかねて、東海道品川宿、中山道板橋宿と共に宿役人を通して、代官所までその実状を訴えたのが次の記録である。
「 諸役人による困惑文献
小林藤之助御代官所東海道品川宿・日光道中千住宿竹垣三右衛門御代官所中山道板橋宿役人共、総代一同奉ニ申上一候。口宿之儀者就レ中震風災以来、自然ニ旅人休泊薄旅籠屋共始追々困窮いたし、家作向修復等も陸々(ろくろく)不ニ行届一難渋罷在候義之処、近頃火附盗賊御改御役人中様、江戸市中同様昼夜共不レ絶御幾人も御廻り、御止宿者勿論御昼休等時々有レ之候而已ならず、江戸内ニおいて御捕相成、宿方ニ者少し茂引合候ものも無之囚人迄も、日々之様御手之衆御銘々より、兼而御渡被レ置候御印鑑ヲ以御預有レ之候節者休泊致、聊麁略ニ心得候義ニ而者決而無二御座一候得共、外御掛囚人落合候砌番屋差支、邂逅断および候得者悉立腹之体ニ而、差支相成候間其段書面可二差出一、又者御用筋軽蔑ニ心得候哉抔と不二存付一義被レ申、強談受候毎度有レ之、追而宿方ニ引合候御調等御座候砌、御手先之衆宿意ニ差挾、種々彼是無レ謂難題申掛ヶ際立御威光ヲ振、宿役人始一同難義仕候義不レ少、右等ニ恐怖罷在、差支候而も無レ拠、何人ニ而も被二仰付一次第ニ御預リ申上候義ニ有レ之、当姿ニ而者迚も宿方一統難渋不レ遁、第一宿入用相嵩多端混雑ニ紛れ、終ニ者諸向御用迄も無二余義一手支候義出来可申哉と、深く心配当惑之余り、三宿役人始旅籠屋一同打集衆評仕候処、御加役方御預ケ囚人御断申上候様者ニ者迚も叶間敷、付而者江戸市中ニ而御捕相成候囚人、宿方ニ引合筋等無二御座一候分者御預ヶ御除被レ下、全以宿方ニ掛り合御座候分而御預被二仰付一候様、御仕法御改被二成下置一候ハバ、自然右御出役中様も御休泊薄く、囚人御預ケ高者不レ及レ申、番人足其外共都而諸入用高相減一統相助、御用向も自と入念大切ニ手厚く勤候様相成、一同安心難レ有仕合可レ奉レ存、依レ之法巳一ヶ年分右三ヶ宿諸向御休泊御賄高、並囚人御預ヶ高とも取調別冊ニ記奉二差上一候。委細右帳面御覧被レ為レ遊、実ニ難渋之次第御賢察被レ下、何卒出格之御仁恵ヲ以、宿入用減方御主法被二成下置一候様、内密書付ヲ以一同御慈悲偏ニ奉二歎願一候。以上。
安政五午年十一月
東海道品川宿
年寄 忠次郎
問屋 喜内
名主 安之助
日光道中千住宿
問屋 市郎兵衛
同 雄三郎
中山道板橋宿
年寄 喜平治 」
「火附盗賊御改御組中様御休泊入用、並囚人預リ人数其外諸雑用、去巳年(安政四年)壱ヶ年分掛高御取調ニ付、別紙歎願書相添巨細奉二書上一候処、一体之事実賄方入用之訳左ニ奉二申上一候。
東海道品川宿
(略)
日光道中千住宿
去巳壱ヶ年分
一 御上下千五百六拾九泊
此賄銭九百四拾壱貫四百文 但上下平均一泊壱人銭六百文
是者平旅人之旅籠ニ積立、外上下酒肴差出候入用、並賄方ニ相用候炭、真木、油、蠟燭、諸雑用一式、凡見平均積立候分。
一 御上下千五拾六昼 但前同断一昼壱人銭三百文
此賄銭三百拾六貫八百文
是者前同断賄方一式入用、泊掛高之半減ニ積立候分。
小以銭千弐百五拾八貫弐百文
此金百八拾五両ト銭弐百文 但両替 六貫八百文
中山道板橋宿
(略)
右者当宿々御用宿勤方之儀、食売、旅籠屋共順番ニ割当、上下人数多少ニ不レ拘宿勤候もの之入用ニ相立、足銭等不二相渡一、軒別順番ニ為二相勤一候仕来ニ有レ之、銘々其日之宿賄不気請之義有レ之候而者何ニ歟ニ付察当被レ致候間、人数ニ応じ酒肴相応ニ差出、御着之節者上下弐三人之処、追々最寄道案内之もの共、並其手ニ属シ居候又ものまで其宿江入込、酒食いたし木銭米代御払無レ之、日々三四組宛被レ成二御越一、御宿別ニ割当御休泊相成、且御組中様直ニ御越無レ之、道案内之者而巳ニ而、宿方旅人改者不二相成一御趣意ニ御座候処、追込囚人名前誰と名主共方申断候迄ニ而、家来衆並手先之もの共旅人相改、邂逅書付持参いたし候義も有レ之候得共、大般右様之流弊ニ付、自然家来衆壱人ニ而御用済可二相成一事も、道案内のもの共大勢附纒ひ罷越、下宿と唱休泊侯分不レ少、宿方旅籠屋共渡世柄故、自と囚人引合等も多く有レ之、然ルを御宿勤方之義等彼是申立候而ハ、追而遺恨を差含、猶難渋を重ね候場合も可レ有レ之哉と後難相恐れ、兎角不気請無レ之様黙止罷在候得共、近来別而御休泊相嵩、殊ニ当節米価高値之上、旅籠屋共助成少く困窮相募候折柄、今般御調ニ付御宿賄方諸入用、凡見平均積立仕候処、年中夥敷入用辻に有レ之、実以宿方難渋至極仕候間、此上御仁慈御救助之御沙汰、偏ニ奉歎願候。依レ之猶別紙書取相添、内密此段奉二申上一候。以上。
(安政五年)午十一月 」
このように栄枯変遷のあった千住宿の旅籠宿も、明治以降の交通機関の発達、取締規則の改正などによりしだいに影を没し、現在はこれら旅籠屋の姿はまったく見ることができなくなった。またその当時においては本宿の千住一丁目から四丁目の旅籠屋と、加宿たる小塚原町、中村町の旅籠屋は利害を反する場合が多かったので訴訟に及んだこともあった。