鷹野の沿革

523 ~ 533

 鷹を放って獲物をとる狩猟法は、むかしから広く各国の間で行なわれたもののようで、わが国でも古くからその風習が伝わっていた。正史に見えるところでも、日本書紀仁徳天皇四十三年の条に網で屯倉阿弭古が異鳥を捕えて天皇に献上し、百済国の帰化人酒君が、それは俱知(鷹)という鳥で狩猟に使用するものであることを教え、これを飼いならして、韋(おしかわ)の足革をその足につけ、小鈴をその尾につけて九月朔日、天皇が大和の百舌野に行幸の際、この鷹を放って多くの雉を捕獲されたということが見えている。その後も時を追って盛んになり、令制では兵部省の管轄下に主鷹司をおいて鷹・犬を調習することをつかさどらせ、その下に正・令史各一人、使部六人、直丁十人、鷹戸若干を隷属(れいぞく)させていた。その後、幾多の変遷を経て武家の世となったが、鎌倉幕府の時代には、源頼朝以来仏法をたっとんだのであまり行なわれなかったが、室町から江戸時代に及んで再び盛んとなった。とくに江戸時代には家康がこの放鷹を非常に好んで、老齢不起の病にかかるその日まで鷹野に出たといわれる。ただしその後将軍の中でも五代綱吉は生類憐みの令を出すなどして、一時は放鷹に関するいっさいの施設をまったく廃止されたこともあったが、八代吉宗が出てからは、勤倹尚武の風を振興する上から再び盛んになっていった。江戸時代には、若年寄の下に鷹匠の職制があり、鷹匠頭五人、その配下には組頭四人・目付四人・鷹匠衆四十四人、ほかに同心百人、餌指二、三十人、犬牽頭・犬牽などがおかれ、たいがい世襲とされていた。鷹匠は、家康が慶長十二年北条氏の遺臣、間宮左衛門信繁を千五百石でこれに任じたのがはじまりであるが、享保以後は主として内山・戸田両氏の世襲となった。鷹部屋は、千駄木、雑司ヶ谷の両所にあり、その付近に鷹匠の役宅が設けられ、鷹匠が住んでいた。鷹匠は預かった鷹を訓養して、将軍家の狩の御成にしたがうほか、時を定めて鳥飼野にいって技を磨き、またその獲物を献じたものである。将軍家の鷹野の御成には鶴の御成、雁鴨の御成、鶉の御成、雉の御成というように、その捕獲する鳥の種類に応じて、その名称も異にしていた。中でも鶴の御成は最も厳儀とされ、寒の入りのあとに、千住・三河島、小松川、品川・目黒の三方面で行なわれ、九代家治のときにその獲れた鶴を朝廷に献上したことから、例年行なわれることがならわしとなった。雁鴨の御成は十月隅田川および浜御殿で行なわれ、鶉の御成は十月駒場野で行なわれ、雉の御成は四月中旬千住・三河島付近で行なわれた。当足立地区方面はこの将軍御成の鷹狩がしばしば行なわれたところであり、御鷹狩の定場所として重要視されていた。当時この地方は、池や沼、水田なども多く、鶴などの飼付地としてはかっこうの場所であったわけである。千住をはじめ区内ところどころにたびたび将軍家遊猟のことが伝わっている。『千住旧考録』にも次のような記録がある。

    鷹野と足立

一、三宮神山勝専寺は二代将軍秀忠公、御鷹狩の節御休息所に相成候例にて、家光公御代境内へ御茶屋御造営有之御巡狩の度毎被為在御成猶又四代将軍家綱公、日光御社参に付慶安二己丑年御仮御殿御再造有之候処延宝八庚申年御取壊に相成候。境内付御殿跡地は其節拝領に相成候。其後元禄十丁丑年小菅に御殿出来御囲内八町四方同十二己卯年綾瀬川堀割御囲内水門出来寛政六甲寅年御殿御取壊に相成候、文化四丁卯年右御囲内へ御納家出来猶又天保四癸巳年町方御納家出来候。文化十四丁丑年右勝専寺境内御殿跡地へ靏(つる)亀の形したる竹生じ御代官並御鳥見方へ訴候。最珍事に候旨諸人見物群集なす。

一、 文政八乙酉年正月廿一日三河島筋家斉公家慶公御同道靏御成乃節当宿町東裏より同所町西裏土手通り二つ森にて鵁鶄(こうせい)(ごいさぎ)へ御鷹御合有之、同年六月中雲雀御用御鷹方御用済御帰府の砌、毎年二ツ森へ御休有之候事、嘉永元申年十一月十八日家祥公当所御鷹野の砌西の宮二ツ森にて鵁鶄一羽御拳有之候事、嘉永二己酉年十二月廿一日三河島筋家慶公家祥公御同道鶴御成の節西の宮二ツ森へ御分鷹被為成候事、嘉永庚戌年正月九日家祥公千住宿筋御鷹野の砌西の宮二ツ森にて鵁鶄へ御鷹御合有之候。嘉永四辛亥年正月九日家祥公千住宿筋御鷹野乃節浅草観音境内御通り抜大音寺まへにて綱差平助方へ御腰掛り大橋御渡り越し掃部宿源長寺へ御膳所被仰付御膳後西の宮二ツ森にて鵁鶄御拳有之夫より虎斑稲荷勝専寺裏第六天堀通り五町目茶釜まえ名倉市蔵方へ御腰掛り夫より東耕地福富堀古川岸通り牛田圦荒川岸多分鴈(雁)鴨鷺御拳有之候。還御は橋戸町竹尾伝兵衛方にて御召替有之大橋御渡り越しにて小塚原三ツ又より御駕籠にて御帰城被為遊候事、当宿西の宮二ツ森社地当所御鷹狩りの度毎御為在御成猶亦御場荒しの節ハ定式鵁鶄へ御鷹御合在之並毎年六月中雲雀御用御鷹方御帰府の砌西の宮二ツ森へ御休在之暫御納凉御休息被為遊御旅宿へ御引取被成候事年々御定例に相成候事。

一、嘉永二己酉年十二月二十一日三河島筋家慶公家祥公御同道鶴御成乃節当宿東耕地にて家慶公鶴御拳し有之同町西耕地にて家祥公鶴御拳有之河原町稲荷裏にて同日四ッ半時鴈へ御鷹御合せの砌同町修験者善行院忰寅次郎当酉八歳、同町半十郎店安五郎忰亀吉当酉十二歳右両人乃子供被召出上様の先へ立勢、御鷹は子供の後に御隠被遊御鷹野有之、此時、上様御懐中被為有候氷砂糖御手右虎治郎へ被下置、夫より大橋御渡り越し三河島にて鶴御拳有之御膳所へ被為成御機嫌能、橋場町より御船にて御帰城被為遊候事。其節御掛り御役人中様より橋場町へ可居出旨被仰渡 尚又橋場町におゐて追て御沙汰可有之旨被仰渡候事、猶亦翌戌年正月五日鴈鴨御見分の節右両人の子供年名前等御調有之候事。

一、嘉永元戊申年十一月十八日、家祥公当所御鷹野の砌、浅草観音裏より塩入土手通り山王前にて白雁一羽御拳し有之候処、生して其儘御為持被遊、夫より大橋御渡り越し掃部宿源長寺に初て御膳所被仰付、御膳後西の宮二ツ森土手通り五町目新宮前通り名倉市蔵方へ御腰掛り夫より東耕地古川岸通り牛田圦荒川岸多分鴈鴨御拳有之候。還御は同日七ツ半時橋戸町より御館船にて御帰城被為遊候事。

 なお将軍吉宗公鷹狩の折の逸話として光茶釜の話がある。それは将軍が、茶店の店先で何気なく茶釜に手をかけられ、その茶釜に自分の姿の写ったのを見て、いたく喜び、一句をよんでのち短冊にしたためて茶店の主人に与えたというのである。『千住旧考録』にもこのことについて次のように記してある。

「一、元文五庚申年十二月将軍吉宗公御鷹狩の節当宿字新家茶店御見合所の見勢先に有之候茶釜へ御手を掛させられ御姿の移り候迚

  名を残す爺々か茶釜や照るかゝ見

と御発句被遊翌辛酉年猶又御鷹野御成の節右発句御短冊頂戴仕候、今におゐて其茶釜連々守護いたし居候。               」

 さて、将軍家鷹野御成の行列も初めは一定の方式もなかったが、漸次警備を厳にし、威厳を保つ傾向を生じたが、やがて吉宗以来鷹狩が庶民の負担となることを心配して供もなるべく手軽にし、休息所なども初めは、御殿または茶亭などをわざわざ諸所に設けたこともあったが、それも家臣の別荘や、寺院、民家等を借用するようになっていった。といつても諸種の雑役を負わされた庶民の犠牲は決して少ないものではなかった。鷹狩のときに備えて諸鳥の保護飼育などのため、御鷹野懸り勤高が割り当てられ、鳥番人足なども随時徴発された。佐野家に所蔵する人足触書文書に次のようなものがある。

   鷹野と負役

(包紙)   「御用急キ

         廻状   佐野弥内蔵

          雑司ヶ谷村初     」

   覚

一 人足四人  雑司ヶ谷村レ

   壱日ニ人足弐人つゝ明二日三日両日ニ可被差出候

一 人足四人  長崎村レ

   一日ニ弐人つゝ四日五日ニ両日可被差出候

一 人足弐人  中丸村レ

   是ハ六月一日ニ可被差出候

一 人足弐人  金井窪村レ

   是ハ七月一日可被差出候

一 人足弐人  新田堀内村レ

   是ハ八月一日可被差出候

一 人足六人  池袋村レ

   是ハ九月十日、十一日迄ニ三日ニ可被差出候

 右者鳥番人足御用ニ候間、日割之通無間違、朝六ツ前ニ人足弐人つゝ巣鴨町総差孫助方江相結詰メ候様ニ可被申付候。尤日割間違不出し得者孫助ニ而買上人足致候間可被得其意朝六ツ前より暮六ツ迄番致孫助差図無之内者帰り申間敷候。

 孫助差図ヲ請相勤可申候。大切之御用人足候間、子供老人相成不申候。万事孫助差図ヲ請ケ相勤可申候。随分鳥ニ差障不申様ニ急度是又人足ニ能々申付可被差出候。若シ間違等有之候得者此上急度越度申立候間可得其意候。此状被見之上村下請印被致相廻留村より可被相返候。以上。

     未六月朔日

                  佐野弥内蔵

    右村々名主中

 このような鳥番人足徴用のほかにもまた鷹狩の御場所、拵(こしら)えのための負担がかけられていた。鷹狩のときに備えて、御成道はいうまでもなく、脇道、橋の修理から畔道拵、藻刈りの仕事にいたるまで手落ちのないように整備しなければならなかった。淵江から谷古田筋の村むらにかけてこのための人足仕事を割付けたものに次のような記録がある。これによれば千住一町目だけでおおよそ八十七人以上の人足が見積られている。

 寛保三年亥年九月

「  淵江谷古田筋村々冬鳥御場所拵人足積帳

         伊奈半左衛門内

             宮川治助

             長谷川忠

             高橋準太

    千住壱町目

一 田数 百拾九枚 さくり当て

   此人足拾壱人 但 壱人ニ付

            拾壱枚つゝ

一 田数 百拾九枚田畔切抜

   此切抜数 弐百三拾八ヶ所

   此人足拾六人 但 壱人ニ付

            拾五ヶ所つゝ

    是ハ壱枚弐ヶ所切抜ニ積リ

一 筑出し  弐ヶ所

   此人足 壱人

一 長延   百五間   但幅平均  御道拵

   此人足 七人 三尺 但 壱人ニ付

               拾五間つゝ

一 長延   百三拾四間半 但幅平均七尺 御道拵

   此人足三拾五人     但 壱人ニ付

                 三拾九間つゝ

一 長延   五百七拾間  但幅平均九尺 藻刈

   此人足拾七人      但 壱人ニ付

                 三拾三間つゝ

   小訳人足 八拾七人

    千住弐町目

一 田数 百八拾枚 田さくり当て

   此人足拾六人 但 壱人分

            拾壱枚つゝ

一 田数 百八拾枚 田畔切抜

   此切抜三百六拾ヶ所

   此人足弐拾四人 但 壱人分

             拾五ヶ所つゝ

一 長延 弐百拾四間  但幅平均四尺 御道拵

   此人足 六人    但 壱人ニ付

               四拾五間つゝ

一 長延 六拾間    但幅平均四尺 御道拵

   此人足 五人    但 壱人ニ付

             拾弐間つゝ

    是ハ日光道中御差抜積り

一 長延 拾五間    但幡平均弐間余 藪すかし

   此人足 壱人

   是ハ慈眼寺境内藪すかし

一 長延 三百三拾四間 但幅平均九尺 藻刈

   此人足 拾人    但 壱人ニ付

               三拾三間余

    是ハ松原前通り藻刈之積り

  小訳 人足六拾弐人

    千住三町目

一 田数 拾枚    さくり当テ

   此人足 壱人

   是ハ銘々田さくり当て御積り

一 田数 拾枚    田畔切披

   此切抜数弐拾ヶ所

   此人足 壱人

   是ハ壱ヶ所弐ヶ所切抜御積り

一 筑出し      壱ヶ所

   此人足 壱人

一 長延 六拾四間  但幅平均四尺 御道拵

   此人足 六人    但 壱人ニ付

               拾弐間つゝ

一 長延 三拾壱間  但幅平均九尺 御道拵

   此人足 壱人

   是ハ川田道拵之積り

  小訳 人足拾人             」

だいたい以上のような割合で、千住四町目、五町目、六月村、竹之塚村など順に記載されている。