徳川幕府は最後のしめくくりとして、天保十二年(一八四一)五月十五日老中水野忠邦の名をもって幕府政治を刷新し、享保、寛政の制によるべきことを諸大名諸役人に布告した。いわゆる天保の改革である。この改革も享保改革、寛政改革と同様人心の緊張と、幕府の経済政策の立て直しをはかったものである。
したがってその内容も、農業の振興、諸民の節倹奨励、株仲間(問屋)の廃止、物価の強制引下げなど、多岐にわたっているが、とくに諸民の日常生活全般についても細かな規制や禁令が多いのも目立っている。 この改革も天保十三年九月水野忠邦が老中職を免ぜられて、わずか二年半で結局失敗に終っているが、この間に二百数十項目の禁令規制がつぎつぎと発せられて、民衆の生活をとまどわせている。そしてそれらの禁令規制は回状をもって村方名主宛に通知し、村民に周知させる方法をとった。当時佐野新田の名主職をつとめた佐野家(現在佐野町二八佐野寛氏)にもこの関連の記録文書が数多く所蔵されている。
この改革布告後直ちに通達されたのが次の触書である。関東代官関保右衛門から武州足立郡淵江領村役人あてのもので、風俗取り締まりを厳重にする旨を伝えている。
とくに百姓は住居、衣類、朝夕の食物にいたるまで古来の風義を守り、初ものや無益の食物などを仕込まぬようにとの細かい点までふれている。
「 近来諸向風俗取締不宜趣今般 上向より重御沙汰有之候近在之義は兎角江戸之風義に押移家作衣類食物等迄百姓不似合之体に相成右は兼ての触達其外五人組帳前文之趣も有之候得共畢竟自分共制方も不行届故いつとなく相弛上に対し支配致候詮無之奉恐入候事に候依て追々内探取調之上取締等急度及沙汰候筋も可有之候条兼て其旨相心得右不及沙汰内銘々不正之義は勿論聊にても如何と心附候筋速に相改候分は是迄之義は用捨致候間住居衣類朝夕之食物迄古来百姓之風義を守初もの其外無益之食物等仕込み候義は不致人別取締等迄五人組帳之趣をも見合せ急度相改可申候
且又兎角触書村役人限り致し置小前へは不申聞趣兼相聞不埓之至候此廻状末々迄能呑込み候様逸々可申聞もの也。
(天保十二年)丑五月
関保右衛門(印) 」
服装についての触書が次の記録であるが、当時頭布をかぶり、さらに手拭で顔を包んで往来していたことなど、珍しい流行があったことがうかがわれる。
「 近来面体を隠し候頭布を拵途中にてかぶり候者数多有之奉行所より尋者に紛敷候間前々より有之候丸頭布角頭布之外一切かぶり申間敷候右之趣先年触候処近来又々面体を隠し異風之頭布をかぶり歩行候者於有之ハ屋敷にても廻りの者見掛け次第頭布をとらせ名前等も承り糺疑敷者に候はゞ召捕届に不及町奉行へ可被相渡候尤も咎め違は不苦候
右之通り享和元酉年中相触候処近来男女共頭布を冠候上手拭を以鼻口を掩ひ後にて結び下げ面体を隠し往来致し右風儀武家へも押移り候やに相聞風俗に拘り如何の事に候以来右体の者見掛候はゝ前書の通り相心得疑敷者に候はゝ召捕町奉行へ可被相渡候
(天保十二丑年)十一月
これら一連の通達や布告に対し村々役人が連印をもって承知した旨の請書を出している。次の記録がそれを語っている。
「 被仰渡書
百姓之義麁服を着し髪等も藁を以つかね候事古来之風儀ニ候処近年いつとなく奢に長じ身分の程を忘れ不相応の品着用等いたし候者も有之髪は油元結其外雨具は蓑笠のみを用ひ候事に候処当時は傘合羽を用右に随ひ候ては次第に費の入用多くなり候間村柄も衰ひ離散いたし候様に成行壱人離散いたし候得ば右之者御年貢返納物等弁納ニ相成村方難義も相重る事に候右之示し手本のため御代官手代共衣服之義も厳敷申し渡し候事にて手代すら右之通りニ候上は百姓共猶更少したりとも奢り候事無之古代之義忘却致間敷候百姓にて余業之商ひ等致候類又は村々髪結床等有之義も不埓之儀に付以来は奢間敷義相改め随分質素に致し農業に相励み可申候
右之趣村々小前之者迄も行届自然と教諭感し百姓風俗相改候様厚く可被申含候。
一、近年百姓共奢侈に長し衣服飲食共身分不相応に相成遠在迄も平日油焼蠟燭雪駄を用い少も手廻り候者は家作結構にひつらい都て農業を怠り余業に走り農家に不似合遊芸等致し候も有之由に付自今以後右躰奢ケ間敷者有之由に相聞候はゝ当人は勿論村役人共迄急度咎め可申付条兼てその旨村々へ可被申渡候
但関東筋在々にては上菓子を製し又は江戸菓子を商ひ髪結床は村毎に有之様成行候趣相聞候右体の義は早々相止候様厚く可レ被レ致二世話一候
前書之通り被仰渡承知奉畏候依之村々一同連印御請書奉差上候
天保十二丑年十二月
武刕足立郡淵江領村々
役人三判連印
中村八太夫様
御役所 」
「 差上申一札之事
今般質素倹約其外御取締筋之義に付品々被仰渡候趣御料は御代官私領は領主地頭より追々申渡しも有之心得可罷在候得共猶又御廻村之上左之通り被仰渡候
一、在方取締向之儀に付ては追々被仰渡之次第是迄数多之義畢竟(ひつきょう)百姓は国之元にて農業を専ら営如何にも質素を可相守筋を精々被仰渡置候得共いつとなく奢侈之風儀になり行遂には肝要の耕地を捨置所之産物抔にて相場掛引之利を量候を専一として又は猥りに江戸表に出奉公抔稼荒地のみ多く出来候様相成候は甚た以心得違之義幾重にも祖父親代より連綿住居之村方を大切に存一己の勝手のみに暮申間敷候事一、道中筋旅籠屋之儀旅人之止宿を強て求め可申と販売女共都て身形を花美に取繕はせ甚たしきに至り候ては遊女屋同様の心得方にて女共も売色之体に仕成し旅人共を取扱候類有之右等は是迄厳重御仕置も被仰付候事にて弁可罷在候得共此上聊も心得違仕間敷候事
一、城下又は船等の着場所にて領主より差免候遊女町之義は格別往還筋並温泉場等にて品々名目を付女子供を差置旅人等の寝食を為賄候義不取締之基に付右様之義仕間敷事
一、其所生産之品々野菜に至迄御府内附出し勝手次第売捌方相成候様今度被仰出候上は聊の利合を考相場之掛引抔致し為滞候様にては一体之御趣意に背き以之外成義に付心得違無之何れにも世上の融通を主もに心掛け且又農業を差置猥りに諸品小売を以一己之利益量申間敷事
一、菓子其外都て高直の食物江戸表においても厳重御法度に候存方は猶更奢ヶ間敷食物拵間敷事
右被仰渡之趣先前御教諭之次第等急度相守聊無等閑村役人共より猶厚世話いたし役人共は弥身分慎方肝要之義候間其旨得と相弁且又在町人別送り之義一体大切之事に候所人別帳は表向斗之様心得内実勝手次第に致し候村方も有之候より自然無宿共も多く出来不取締に付人別送りの義は厳重に取斗ひ其外在方五人組前書帳は右御帳にも御記し被置候通り毎月名主所において読之銘々能々弁候様可仕若所持無之村方ハ其筋へ罷出右前書之趣兼て窺置候様可仕右被仰渡之条々麁略に存候者も於有之は厳科の被仰付候旨今般
御奉行所御沙汰之趣を以被仰渡一同承知奉畏候
仍而御請書如件
口達書
右は今般被仰渡請書之趣得と弁組合村々小前に至迄無違失申通寄て組合村々より請書調印取之追て廻村之節差出候様可致一体取締方之義は文政十二亥年御改革此方悉く被仰渡も有之事に付今般改て此義其義と御沙汰は無之何事も右亥年以来被仰渡候請書又は五人組前書にも有之事に付此度被仰渡候請書を熟し急度可相守右亥年御改革請書並五人組帳前書写一覧致度者は無遠慮可申立若前々御趣意に振候事も候得は差押候義は勿論之義に候条此口達之麺も小前末々迄無洩落可申通自然申聞候ても不用者は早々廻村先へ可申立事
一、御府内端々裏々迄も御調有之候に付女髪結かこゐ女様之者或はごろ付と唱候若者等御府内すら住居不相成夫々立退候次第に有之在々之義も列記之義厳重に穿さくを遂げ無宿は勿論たとへ確成請人有之候ても風俗不宜無商売之者は決て差置申間敷事
(天保十三年)寅四月
「 民家之寄持は農事励余分之御年貢上納するを第一とす其故は田畑壱畝壱分たりとも隠置す前々川欠石砂入山崩等之荒地出精して起返し田畑耕に力を尽し諸々の肥草を取調入多くの米穀を得御年貢余斗上納して正直成村里は高免にして他より見ると難義之様に聞ゆれ共聊以さにもなく民諸事に油断なく倹約して稼に暇なく悪事にも携らす収納の穀物余斗になり公儀は言ふに不及領主地頭並国益多く右余斗米穀を以万民今日之露命を繋くゆへ其陰徳の報ひすくなからす自然天は言ふに不及其領主地頭より幸を下し諸々の災難も逃るゝ故一村繁昌し田畑下免にして作徳多く隠田畑有色々の荒地速々起返し本免にも入べきに種々偽取拵押隠し又は水干様を〓(たばかり)て御年貢を減ぜんと謀り或は川除普請其外余事出精金銀多貪(むさぼ)らんとする村方は隠悪多く不届成故奢に長し終に天は言ふに不及領主地頭之憎しみ受不幸にして悪者多出来次第に一村衰微して難義歴然たり民を憐み給ひ禁裏にては天下泰平を御訴御心をせめ給ひ朝暮に御執行有公義にては文武之御役人を撰み有世を治め民を恵む事に御心を砕き御入用之費も御厭(いと)ひなく昼夜をわかたす眷属安穏に暮す其難有事尽かたく村役人たる者は此利を能弁民悪事に移らぬ様に稼に暇なく勧農して米穀を余斗に得て御取図之増様に心掛るは大積善にして一村繁昌するは必定なり