徳川幕府は黒船来航によりやむなく開国政策にふみきった。しかしその後国内におこってきた尊皇攘夷(じょうい)論など内憂外患の政治危機を、朝廷との接近すなわち公武合体策によってきりぬけようとした。孝明天皇の皇妹和宮を将軍家茂の令室に願い出た。紆余曲折(うよきょくせつ)の後、万延元年十月十八日(一八六〇)正式に勅許となり、幕府はそれから和宮下向にそなえて諸準備にとりかかった。幕府の命運をかけて願い出し、許されたものだけにすべてが大がかりのものであった。
文久元年七月二日(一八六一)、幕府は関東下向を九月から十月の間にされたいと願い、天皇は十月二十日京都出発を定められた。道中は中仙道ときまり、幕府は諸大名、諸役人に道筋の警備と整備を命じた。
『佐野家文書』のはじめにあらわれるのが、中山道蕨宿への助郷臨時転宿のことである。元来足立郡村むらは、日光道中千住宿の助郷づとめであることは前述のとおりであるが、大量の人馬輸送のため蕨宿に廻わされたものである。
「 追而此触書早々相廻承知之旨別紙請書相添留村より蕨宿に返し夫より廻宿先へ可被返候 以上
和宮様御下向之節宿継人馬多入間左之村々中山道蕨宿へ当分助郷申付条問屋方より相触次第人馬遅参不致無滞差出相勤可申候、尤当時年季休役勤之分も今般御用に限り是又可相勤もの他
(文久元年)酉九月二十五日
(道中奉行)
隠岐御印
武州足立郡村々
名主/組頭 中
また村むらの役人がこのことについて、細かな取りきめをして連印議定したが、その記録は本史助郷の項「議定之事」を参照されたい。
いずれにしても近い千住宿から遠い蕨宿へ、さらに急に桶川宿へ廻わされたのだから、農民の負担は大きかった。なおその行列も中山道はじまって以来の大規模で、中山道太田宿(美濃)の旧記によると、同宿で使用した人馬は七千八百五十六人・二百八十匹、寝具は、ふとん七千四百四十枚・枕千三百八十個、食器は飯碗(めしわん)八千六十人前・汁椀五千二百十人前・膳(ぜん)千四十人前・皿二千百十人前、通い盆五百三十五枚の多量に及んでいる。警備人数は千三十人、枝道間道の警備に四百二十六人、御旅宿の警固人数六十四人と記され、その盛観をうかがうことができる。
行列が近づくにつれ、村むらの警戒や助郷関係の触書がひんぱんに村方にとどけられた。
「 今般
和宮様御下向に付当節より江戸表御着輿済迄之間御道筋始組合村々別而御締向嚴重可相心得段御下知に付 左之通申達侯
一、第一火の元入念いたし無宿悪者又はう乱成もの不立廻様組合限り申合大小惣代寄場役人道案内人等は不及申村々役人共不絶見廻心付て急度御締相立候様可被致候
一、無宿悪徒立廻り候節速に差押候は勿論にて此余悪と疑敷相聞候者は不見逃出所来由問尋不審成子細有
之者其所へ留置早々始末可申越候
一、大盗之難其外何事によらず相替候義者たとへ浮説不取留義にても其村々速に申越事実は追々聞取注進可致候
右之趣無違失相心得此余すべて御締行届候様精々無等閑可申合候自分共義此程より御道筋其外遠手をも廻在可致条組合内無洩落申請置不都合無之様入念可被致候
関東御取締臨時出役 秋山賢平
望月善一郎
木村掛藏
大島厚輔
小川繁次郎
同 定出役 石井鑵之助
金子直蔵
馬場鉄蔵
(文久元年)酉十月二十五日
前書の通御触書出候間別写を以御達申候 御取締向行届候様御取計可被成候
此廻状早々御順達留村より御返可被成候 以上
栗原村寄場名主 弥三郎 」
治安対策は村内や街道筋ばかりでなく川筋についても同様で、中川についてはすでに文久元年八月以来渡船はもちろん、川向いの田畑への運搬船まで夜間の通行を禁じ、昼間も通行手形を持ち、身元の明らかなものだけの渡船を許可し、警備に当っていた。しかし助郷人馬がいよいよ中山道へつめかける時期が近づいてきたので、その例外触書も出された。次の記録がそれである。
「中川通其村々作場渡船御差留相成居候処今般
和宮様御下向に付中山道宿々へ罷出の助郷人馬之儀右渡船場へ相かかり通行不致候て差支候分は銘々支配領主印鑑持参致し候か又は村役人共付添成丈一とまとめに通行可為致尤其所村役人共出張居厳重相改右人馬に限り相通し通行相済候はば猶又如以前嚴重差留可申旨其筋より御下知に付得其意聊差支不相成様可被取計候 右御用人馬に限り通行為致候儀にて自余の通行是迄の通り決して疑相成者勿論右人足に紛れう乱成もの不立入様改方厳重にいたし不取締之儀無之様急度可被取計候此廻状割付名急速継送留村より吉田僖平次安原十郎作方へ可被相返候 以上
酉 十一月八日
関東御締出役
中川通西側
武州葛飾郡亀有村より
同国埼玉郡粕壁宿まで
作場 渡船場 村々役人中
追て其川筋掛出役より渡船封印致置候分有之候はば差掛候儀に付村役人共立会切解無差支様可被取計候且作場渡船有之候村々無洩落急速順達いたし承知の趣此廻状奥へ村名並村役人名前認入令請印可被継送候 以上 」
十月二十日辰刻(午前八時)京都桂宮邸を出発した和宮の行列も、途中つつがなく江戸に近づいてくるにつれ、各宿駅はいよいよ緊張し、人馬の往来、廻状の連絡もひんぱんになってきた。助郷人馬は十一月十一日から十四日まで、時に蕨宿に、時に桶川宿へと詰めきり、ぼう大な荷物輸送に従事した。この間の事情をしめす記録が次の触書である。輸送に支障があったので、宿役人助郷惣代十人余即座に打ち首になった云々の物騒な知らせもあり、当時の関係者の緊張のおもかげがしのばれる。
「今般
和宮様御下向に付当節より江戸表御着輿済迄の間御道筋並其組合村々別而取締向嚴重可相心得段御下知之旨仰触御取締御出役様方御廻村可有之候間其御村々御廻村の節兼て御心得居り御差支無之様御取計可成候且御旅宿の義可被仰付やも難斗奉存候間大谷田村名主久藏方にて用意致置候筈に候間其節は右同人方へ御案内可成候
右御承知の旨村下へ被成印形早々順達留り村より御返し可成候 以上
(文久元年)酉十一月七日
蒲原村名主 春日五太夫
大谷田村名主 久蔵
以廻状御達申上げ候明後十一日蕨宿四ツ(午前十時)詰人足は同日朝暁七ツ半(午前五時)時嘉兵衛橋へ相揃申候同日同所夕詰人足は朝正四ツ時同所へ相揃可申候
右の通り遅刻無之様御出張可成候
右御承知の旨御村下へ被成印形早々御順達留村より御返し可成候 以上
酉 十一月十日
蒲原村 五太夫
長右衛新田 三十郎
追て御請取被成人足札袖印並印紙共全正人足へ相渡残雇人足之分は蕨宿へ持参惣代の者へたしかに御渡可相成候以上
○
以急廻状御達申上候而れば今般御下向に付関東御取締増山拾助様より領中申合嚴重取締り致す可き旨仰付けられ候間御村毎に村役人衆一人其御村方限り明十一日より十六、七日頃迄精々御見廻りなさるべく候此状早々順達留村より御返しなさるべく候
十一月十日
寄場 大小惣代
大急ぎ以廻状御達申上候然者蕨宿より人足詰所割合被相渡候処只今俄に不残桶川宿詰に相成候に付 此状披見次第蕨宿へ向け罷出着到引付可被申候様 御取計可成候且上筋にて御継立差支候に付宿役人助郷惣代之者拾人余即座に手打に相成候由にて悉く嚴重相成候間差支無之様可取計旨御代官様より御達し御座候間此の段御達申上候 且此状御披見之上村下へ被成請印持廻り者へ御渡可成候 以上
蕨宿 問屋 五兵衛
弥五郎新田 孫三郎
酉 十一月十一日 大谷田村 恒七
○
四百文 鉄五郎
同 左兵衛
同 吉五郎
同 助次郎
同 友五郎
金参朱 栄次郎
八人 佐野新田
急て申上候然者今般御継立多くに付前書人足割増賦相成候間今タ七ツ時迄に蕨宿私共下宿へ罷出候様御申付差出可成此状村下へ被成受印持参の者へ御渡可成候以上
西 十一月十一日
弥三郎
恒七
忠蔵 」
和宮は十一月十四日板橋宿に到着、翌十五日江戸にはいり二十五日めに九段の清水邸に安着した。
関係道筋はまるで台風一過の静けさをとりもどしたが、助郷関係の村むらは経費負担や残務整理がのちのちまで尾を引き、ついに翌年までごたごたしてしまった。
○
「以廻状御達申上候而れば蕨宿増助郷勤人足其外割合の儀一昨日相談の通り定助郷残高村々より助合せ出銭致すべき様挨拶有之而上は余日も無之候に付急速割合致し度頼み候間御苦労乍ら明後九日早朝千住宿助郷会所に御出張下さるべく候此廻状早々持参の者へ御返し成さるべく候 以上
酉 十二月七日
弥五郎新田名主 弥三郎
興野村名主 午蔵
覚
廻状を以其意を得候 然れば先達中和宮様御下向の節蕨宿へ増助郷仰付られ右継立中人足賃並に賄雜費等割合平均致すべきの処未だ千住宿助郷残高村々より出勤請取り申さず候間もはや余日も無之に付来春定出勤請取り次第平均割り合可仕候間其まで所無高にて出人足も有之難渋の儀も可有之や御村内凡そ割を以内渡しなされおき候様御取計下さるべく候且此状御承知の上御印形ならせられ早々御順達留村より御返しなさるべく候 以上
酉 十二月十四日
蒲原村名主 春日五太夫 」
公武合体という幕府の最高政策が和宮降嫁となり、無縁と思われた足立の村むらが、その大波にゆれ動かされたことを語る資料の一端である。
幕府のこのようなてこ入れも大勢をささえるによしなく、その終末は刻々と近づいていった。
道中所懐 和宮
○旅衣ぬれまさりけりわたりゆく
心もほそき木曾のかけ橋
○遠ざかる都としればたびごろも
一夜のやども立うかりけり
○住みなれし都路いでてけふいく日
いそぐもつらき東路のたび