公武合体によって幕府は一応危機を切りぬけ、政局不安を解消しようとはかったが、まったく一時しのぎに終ってしまった。国内各地に武士の騒乱、百姓一揆(き)、あるいは外国艦隊との交戦など、泰平の夢の破れるときがきた。
その一つに元治元年(一八六三)筑波山に挙兵した水戸浪士による天狗党の乱がある。幕府は急進的攘夷(じょうい)派によるこの乱を重視し、同年四月高崎右京大夫に追討を命じ、幕軍は水戸街道、下妻街道を常陸の戦野に進撃し、これを討伐した。
残党は筑波山から下野国へ、さらに中山道から北陸道を京都に立ち向った。足立の宿村もその世相不安からのがれることはできなかった。各村も自衛策を講じ、村内の治安に当った。その姿を伝えるのが次の一文である。(佐野寛氏藏)
(表紙)
「元治元子年九月
浮浪之徒取締議定連印帳
足立郡佐野新田」
(本文)
「 取り極申す議定之事
一、今般野州辺賊徒御追討仰出され御触を以て仰渡さる右については組合村々の内徘徊は勿論立廻る不法の儀有之節は、兼て相殺し候ても苦しからざる旨仰渡有之候に付銘々竹槍用意致し置打殺し申すべく候其節一番に相働候者へは手当金として金五両宛つかわすべきはず然る上は夫々相図有之候節は早刻出張相働き申すべく候若し不出相者有之候はば其段御支配様へ申立て御吟味受け候様取計らい且又右諸入用の儀は主だち候名前の者金高の内三分其余名前者二分残り五分総高割を以て出銭致し立払申すべく候此によって後日の為議定取り極め申す所 仍如件
元治元子年九月
(主だちの名前)
伊藤谷村 四郎兵衛
久右衛門新田 久右衛門
伊藤谷村 四郎吉
同 源四郎
辰沼新田 治右衛門
嘉兵衛新田 嘉兵衛
五兵衛新田 左内
佐野新田 賢次郎
大谷田村 久蔵
同 武兵衛
久左衛門新田 傳左衛門
同 七郎右衛門
〆拾二人
(其余の名前)
大谷田村 恒七
伝八
平六
要助
新右衛門
清左衛門
佐野新田 豊次郎
円藏
久右衛門
蒲原村 五太夫
徳次郎
長右衛門新田 善右衛門
次郎右衛門
五左衛門
忠右衛門
古万衛門
橋右衛門
太郎右衛門
(以下 名前略)
北三谷村 九人
長左衛門新田 三人
久右衛門新田 二人
六ツ木村 四人
久左衛門新田 二人
辰沼新田 二人
嘉兵衛新田 二人
五兵衛新田 三人
伊藤谷村 四人
普賢寺村 六人
〆 五十九人
別紙之通り領中組合村々一統評議之上取極左の通り
一、村内小前者へ関東御取締御出役様方より仰渡され候すじ箇条を以て一同拝見承知仕り候而る上は賊徒浪人の類村方へ立廻り候節は見かけ次第早速御注進仕るべく候 且最寄り近村へ悪者立入り候節は御沙汰次第其外竹槍得物携え急速銘々かけ付け差押え申すべく候 若し悪者見のがしに仕り候か右場所へ不出合者御座候はば追って御取調べの上嚴重の御とがめ仰付らる候旨一同承知仕り議定連印一さつ仍如件
元治元子年九月
百姓二十四名連印
年寄 円藏
同 忠右衛門
同 豊次郎
名主見習 孝次郎
名主 賢次郎 」
慶応三年(一八六七)十月十五日徳川将軍慶喜はついに大政を奉還し幕政に終止符をうった。このときから翌春にかけて、めまぐるしい世情の変化が村むらにも直接反映してきた。官軍の入府、江戸城明け渡し、幕軍の解体、脱走彰義隊の変、新選組残党の出現など、戦々兢々(せんせんきょうきょう)の日びが続いた。この間の状況については「明治維新余話」の項を参照されたい。
次の文書(佐野寛氏蔵)も、前出元治元年九月議定書と同じ綾瀬以東十四か村の取り決め文書であるが、一番よく働いた者の手当が、三年半の間に五両から七両に値上りし、また経費の捻出(ねんしゅつ)について細かな取り決めをしていることなど興がある。
「 慶應四年辰四月十六日
取極申議定之事
一、今般世上物騒が敷折柄賊徒共徘徊致し不法乱暴の所業等有之候節はかねて申合せの通り半鐘を打鳴らし候はば人数右場所相まとめ変事有之候村方より達し次第人数昼夜に限らず急度駈付け申すべく候事
一、人数銘々竹槍並に鳶口等得物持参急速駈つけ村役人より指図を受け一番に相働き候者は手当として金七両宛遣すべき筈尤も出金の儀は左の名前並に村々の出金割合差出す事
一、悪者ども昼夜に限らず組合村々へおし入り乱暴相働き候節は万一不出合者共有之候はば過怠として金五両差出させ申すべく候若し当人出来かね候はば親類組合之者共より急度差出させ申すべく候事
一、右諸入用割合の儀は主だち候名前の者共金高の内二分五厘其余り名前の者にて同断二分五厘残り五分は総村高割を以て甲乙なく割合出金立払申すべく候
これによって後証の為組合村々議定取極申所仍如件
辰 四月十六日
新川東十四ケ村組合 三判連印
(主だちし名前)
伊藤谷村 吉田四郎兵衛外十一人
(其余の名前)
大谷田村 恒七外五十四名
備金 五拾両也
内 二十五両 前名前人出金分
二十五両 高割の分
前書組合取極候 以上
二両一分 伊藤谷村 吉田四郎兵衛
同 谷中新田 久右衛門
一両三分 辰沼新田 治右衛門
一両二分 大谷田北 治作
同 佐野新田 勘藏
三分 伊藤谷村 四郎吉
二分 嘉兵衛新田 嘉兵衛
同 蒲原村 春日五太夫
同 久左衛門新田 傳左衛門
同 同 七郎右衛門
同 大谷田村 武兵衛
(以下略)
覚
非常備金五拾両割合方左の通り
内 金二十五両 銘々前人より出金
金二十五両 組合村々高割
三千四百石割 但 高百石に付
永 七百六十五文三分当り
(以下略)
江戸市中は幕府のおひざもとだけにその混乱はさらにはげしく、五月十五日旧幕臣による彰義隊の変によって、その極に達した。そしてその余波が、この足立の農村にも刻々達した。官軍から発せられた治安維持の布告はこの騒然たる世情を語っている。
「 布令
(慶応四年)
○戊辰五月二十八日
町々 名主共
今般江戸鎮台府被二差置一候ニ付町奉行所ハ市政裁判所ト唱替役々鎮台府附ニ被二仰付一諸事前々之通被二取計一候間其方共掛役等申付置候者モ是迄之通相心得諸事御新 政の折柄御為筋ハ勿論市民難渋之儀等能々勘弁尚更精勤致シ見込之趣等モ有レ之候ハハ無二忌諱一可二申立一且支配内町人共へモ厚ク申聞猶時節柄ニモ有レ之一同難儀致シ可二罷在一候間渡世致シ安キ様厚ク世話致シ願事等ハ篤ト相糺シ言路不レ塞様為二申立一様可レ致事
○戊辰六月十九日
近来 鎮台宮様御中間又ハ官軍抔唱中間躰之者町人共見世先へ罷越又ハ途中ニ於テ往来人等ヲ捕へ無レ訳儀ヲ申掛商売之妨相成候様仕成シ一同難渋シ致候趣相聞候元ヨリ右様之儀有レ之間敷事ニ候得共自然無宿同様之者共時勢ニツレ右躰之所業及ビ候儀ニ可レ有レ之候間以後右様之儀有レ之候ハハ假令 宮様御印等着用罷在候者ニテモ聊無二用捨一召捕裁判所へ召連可二訴出一勿論後患ヲ恐レ見逃シ金銭等差遣内分ニ致シ置候儀等有レ之間敷押訴出候共跡々障り無レ之様取計可レ遣間得二其意一心得違無レ之様可レ致事
○戊辰六月
町中所々へ盗賊押込又ハ抜刃ヲ以往来人ヲ相威シ金銭奪取手荒之及二所業一候者有レ之節ハ兼テ町々相図申合置近隣ハ勿論最寄之者共速ニ駈付打寄取押可レ申若手余候ハハ打殺候テモ不レ苦旨先前幕府ヨリ触示置候趣モ有レ之町々ニテ兼テ申合之手筈モ有レ之候由之処今般朝政御一新ニ付テハ市中取締等猶更嚴重ニ致シ自然右様之所業及ビ候者致二超過一候テハ以之外ニ付向後弥右触書之趣相守厚申合置右様及二悪業一候者有レ之候ハハ早速召捕又ハ疵付打殺候共不レ苦候尤死骸並召捕候者共月番裁判所へ召連可二訴出一其ノ品ニ寄屹度御褒美可レ被レ下候假令捕押訴出候共後難ハ勿論重テ吟味之節呼出相尋候儀無レ之様致シ可レ遣間訴出候砌手続委細認メ可二差出一候
但盗賊並乱妨人等召捕候節之町入用ハ下ケ可レ遣間其時々書面ヲ以可二申立一事
○戊辰八月二十九日
今般幸橋御門内郡山藩邸ニ東京府ヲ置レ候ニ付来月二日ヨリ市政裁判所ノ御用向取扱候旨ヲ令ス 」
こうして戦火はしだいに奥羽地方にまで及んだが、明治二年五月、函館五稜廓の旧幕臣の降服によって戦乱はようやくおさまった。
江戸から東京へ、封建制から近代国家へと国の歴史のあゆみをそのままに、足立の村むらも明治の新政を迎えていった。