明治と改元されたのは慶応四年戊辰(一八六八)九月八日であるが、これよりさき五月十五日、征東大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王は、上野東叡山に立籠った彰義隊を討滅すると、五月十九日江戸に鎮台府を置いて、暫定措置として江戸府下取締りを委任していた町奉行・寺社奉行・勘定奉行のいわゆる三奉行を廃し、これらに代る市政裁判所・寺社裁判所(のちに社寺裁判所と書き改められた)・民生裁判所を置いて、旧幕府の行政機関を完全に接収した。この時定められた鎮台府の最高幹部職員は左のとおりである。
鎮台 有栖川宮熾仁親王
補 橋本少将 大原前侍従 西四辻大夫
同加勢 北島千太郎 西尾遠江介 横川源蔵
その七月十七日「江戸ヲ改メテ東京トセン」との詔勅が出て、京都の西京に対して江戸は東京となった。明治天皇は明治元年九月二十日京都発、十月十三日東京に着御、江戸城を改め東京城とし、御東臨の日の皇居と定められ、いったん京都に還幸の後、翌二年三月二十八日再び東京に御着、東京城を改めて皇城とし、そのまま東京にとどまられた。
江戸が東京と改められるや、仮に設けられた鎮台府を廃し、大総督宮は軍務専管となり、新たに鎮将府を置いて駿河以東十三か国を管し、輔相三条実美をもって鎮将を兼ねさせ、市政裁判所を廃し、東京府を置き、鎮台輔であった烏丸光徳が初代知事になった。
市政裁判所と同時に設けられた社寺裁判所・民政裁判所も多少日時の差はあったが廃された。もともと社寺・民政両裁判所は市政裁判所と異なり、全国的なものであったが、鎮将府ができ、そして駿河以東十三か国を管理することになると、その範囲内の社寺はその所在する府藩県の支配となり、府藩県で裁決しがたい難件は、府藩県から鎮将府に裁判を仰ぐ方法を採り、また勅祭神社・大社等については、直接太政官の神祇官が支配し、その他、万石以下の領地ならびに社寺領は近くの府県の管轄に移されることになった(太政官布告)。たとえば東京府では、万石以下(旗本領地および社寺領)は東京府の管轄下にはいるので、かつての東京府内における社寺裁判所の職務内容が、府に移管されることになった。
民政裁判もまた、同年八月八日をもって廃止され、鎮将府会計局となった。
「戊辰雑録辰八月八日
今般改二江戸一称二東京一、是迄之江城へ鎮将府ヲ被レ置、民政裁判所ヲ会計局ト被レ改候間、此段相達候事」
同年七月十七日に東京府が開設され、つづいて八月十七日に府知事が任命されたが、実際に府庁が開庁されたのは九月二日であった。これよりさきの五月、江戸鎮台の設置により、前記市政裁判所・寺社裁判所・民政裁判所の制度がしかれ、江戸府外の足立の地区は、もと勘定奉行に属した代官の支配地であったので、当然民政裁判所の管下におかれたが、一か月後の六月には武蔵知県事が任命されて、その管轄下にはいった。(武蔵知県事とは称したが、武蔵県が設置されたのではない。)
武蔵知県事には旧代官の山田政則、松村長為、桑山効の三人が就任し、江戸郊外の西南部(のち品川県)・西北部(のち浦和県)・東北部(のち小菅県)の旧代官支配地を分担し、本地区は桑山効が支配することになった。この三人の武蔵知県事の支配地にも、地方行政における府・藩・県三治の原則推進のため、それぞれ県が置かれることになり、明治二年一月から順次武蔵知県事の制度を廃止し、一月十三日、東京の東北部郊外を小菅県とし、河瀬外衛(桑山効の後任)が権知事に任命された。その配下に大参事岡本太郎・少参事清水静衛・大属岩佐幸兵衛外三名、准大属一名・権大属七名その他小属・権少属・史生など任命されていたことが記録(報恩社法)に残っている。
小菅県につづいて、一月二十八日には宮原忠英(山田政則の後任)が大宮県知事に、二月九日には古賀一平(村松長為の後任)が品川県知事に任ぜられた。なお大宮県は明治二年九月、浦和県と改称されている。
小菅県時代のこの管轄区域は暫定的なものであり、(実施期間未詳)次のように定められた。
第一区 西葛西領(現葛飾区)
第二区 千住宿(現足立区と荒川区)
第三区・四区 淵江領(現足立区)
第五区 舎人領(現足立区と埼玉県)
第六区 谷古田赤山組合
第七区 越ヶ谷領(現埼玉県)
第八区 八条領(現埼玉県)
第九区・十区 二合半領(同)
第十一区 新宿町組合上之割(現葛飾区)
第十二区・十三区 下之割(同)
第十四区 小金領(現千葉県)
第十五区 行徳領(同)
小菅県は現在の東京都、千葉県、埼玉県にわたる三百五十余か町村の広大な範囲であった。
この小菅県も明治四年七月十四日太政官令第三五三号で廃藩置県が公布され、十一月十四日太政官令第五九四号で新たに東京府が設けられ、小菅県は廃止となり、小菅県の所轄の一部に属していた豊島郡および足立郡も明治五年二月八日正式に東京府に引継がれた。