江戸市中の行政は町奉行が担当したのに対し、郷村地区は代官(関東郡代時代が長かった)が掌握していたことは、江戸時代の項で述べたとおりで、町方では名主・月行事五人組・家主を町役人と称し、村方では名主・年寄・百姓代を村役人と称し、役名の違い、また町場(まちば)、農村という環境の差による事務内容の差異こそあれ、いずれも名主を中心とした町村の自治にまかせられていた。
しかしこの名主制度にも、長い間の因習による弊害が積っていて、明治改革政治を行なうためには、根本的な革新が必要であった。このことは明治維新前、慶応年間の江戸市中取り締りの改正の時、幕臣の意見としても強くその弊害を説き、断然名主制を廃し、町人の選挙による町内取締役を定め、公平な町政を当局に建言しているのを見てもうかがわれる。
江戸市中は市政裁判所、市外地区は寺社・民政裁判所によって支配され、ついで東京府が市政裁判所になり、その権限範囲も拡大されて市外地区も含むようになったが、名主以下の下部機関は、新政府の下においてもなお旧のままであった。
明治二年三月になって、下部の機関にも改革の手がのび、まず名主制度が廃止された。
「 町々名主共
今般市中取締筋改正ニ付、一同名主役差免ス
巳(明治二年)三月十日申渡
町触
今般東京市中取締御改正ニ付、是迄ノ名主共一同被二廃止一候事。
一、御改正ニ付テハ、市中一般更ニ区別ヲ立、町々組合ヲ定メ、町用為二取扱一候筈ニ付、其旨可二相心得一。
尤組合等ノ儀ハ追テ相達可レ申事。
右之趣町中不レ洩様可二触知一者也。
巳三月十日 」
江戸時代を通じ、町人自治の中心的存在であった名主の制度はこれで終りを告げた。右の文書は市中の名主に対してのものだが、この制度は郷村地区にも適用されたことは当然である。実際に徹底して全国的に普及されたのは明治五年初めで、やがて戸長制へと移って行くのである。