大区・小区制がしかれたのは、戸籍法の区画の規定が根本になっていることは前記のとおりであるが、その戸籍法の第一則中に区画がきまったら、区ごとに戸長・副戸長をおき、戸籍事務を掌(つかさど)らせることが定められている。第二則に戸長・副戸長の選出方法が規制されている。すなわち
戸長ハ必ズ長ト副ニ限ルベカラズ、時宜ニヨリ長副数名アルモ妨ゲナシトス
但、戸長ノ務ハ、是迄各処ニ於テ荘屋名主年寄触頭ト唱ル者等ニ掌ラシムルモ、又別ニ人ヲ用ユルモ妨ゲナシ。
とある。
戸長の任務は、定められた区間の人員、生死、出入などを詳(つまびら)かにする。すなわち戸籍事務のほか、区民の願、伺に関すること、区入費出納の監督、子弟の就学および農工商各業の勧奨、道路橋梁の掃除、下水の疎通の注意、篤行奇特人や窮民らの具申など広範な事務内容で、副戸長の補佐をうけ、書記を指揮し、それらを処理することになっている。
書記の人員は該当する区の戸数の多少によって定められており「戸数三千戸ニ四人ヲ置キ、以上四百戸ヨリ七百五十戸マデニ一人ヲ増スヲ例トス。」とある。
戸長たちの事務所は大区・小区時代のはじめは、小区扱所または単に扱所ともいったが、明治九年区務所と改称し、大いに役所らしい形式が整えられ、のちの区役所に一段と近づくことになった。
大区・小区制が廃されて、明治十一年には郡区制が実施されたが、戸長制はそのまま採用され、人員の増加その他職務内容の増減はあったが、主要点はほとんどかわらずに持続され、そして戸長名は明治二十一年四月、市制町村制公布後もまだ使用されていた。したがって大区・小区時代の本項に、それ以後の時代におよぶ戸長の記録を記すことは、分類上、制度上から見ても、また時代を区切って記述している関係から矛盾を感じる点もあるが、この項にかぎり、時代別にとらわれず「戸長」について記載する。
二十一年分堤塘敷貸下料
高橋四郎吉
第貳号
一金弐拾六銭六厘
右正ニ受取候也 千住四 五丁目
明治二十一年十月三日 戸長役場(印)
当地区では、戸長に関する記録はきわめて少なく、明治七年七月版の「東京町鑑」による戸長、副戸長名、また明治十二、三年ごろと推定する地図(東京府南足立郡図 日比谷図書館蔵)による戸長役場所在地、明治十八年渡辺東京府知事管内巡回記の南足立郡各町村の戸長名などによって知る程度である。
明治七年七月版の『東京町鑑』には、
第十大区四小区 戸長 浅香成憲
扱所 北組元一丁目
副戸長 渡辺太三郎
豊島郡 千住宿南組 [元中村町/元小塚原町]合併
副戸長 鈴木高儔
足立郡 千住宿中組 [元橋戸町/元河原町/元掃部宿]合併
副戸長 大久保宗平
同郡 千住宿北組 [元一丁目/元二丁目/元三丁目/元四丁目/元五丁目]合併
第十大区五小区 戸長 浅香政喜
扱所 西新井村
副戸長
足立郡西新井村 清水当明
副戸長
同 興野村 吉沢安吉
副戸長
同 本木村 川名孫三/竹内充当
副戸長
同 梅田村 小泉宣吉
副戸長
同 島根村 牛込栄清
副戸長
同 栗原村 水野良民
副戸長
同 竹塚村 河内常定
副戸長
同 伊興村 宮城孝三
副戸長
同 伊興村上地 常田信光
副戸長
同 古千谷村 花井巳之次郎
副戸長
同 入谷村 高橋毎加
副戸長
同 加々皿沼村 飯塚昌治
副戸長
同 鹿浜村 野辺美啓/鈴木伝報
副戸長
同 鹿浜新田 野辺美啓
副戸長
同 堀之内村 堀内礼重
副戸長
同 沼田村 堀内重義
副戸長
同 宮城村 下川信喜
副戸長
同 小台村 宇田川喜平
副戸長
同 高野村 梶佐市
副戸長
同 谷在家村 浅香佐一郎
備考 (一)舎人村はこの時は埼玉県管下に属しており、東京府に編入されたのは翌明治八年のことである。
(二)扱所は翌九年には区務所と改称された。現在の区役所の前身である。
第十大区六小区 戸長 金子健重
扱所 内匠新田
副戸長
足立郡大谷田村 金子松之助
副戸長
同 佐野新田 矢沢八十八
副戸長
同 六ツ木村 星野文司
副戸長
同 内匠新田花又村 青木荏三
副戸長
同 保木間村 細井左一
副戸長
同小右衛門新田 渡辺政吉
副戸長
同 [六月村/次郎左衛門新田] 鶴飼喜将
副戸長
同 伊藤谷村 吉田四郎平
副戸長
同 弥五郎新田 大塚孫左
副戸長
同 五兵衛新田 (不詳)
副戸長
同 嘉兵衛新田 伊藤与一
副戸長
同 [久左衛門新田/長沼新田/久右衛門新田/長左衛門新田] 吉野三重
副戸長
同 普賢寺村 石黒市造
副戸長
同 北三谷村 山崎重平
副戸長
同 蒲原村 春日五平
副戸長
同 長右衛門新田 佐久間治平
次に明治十二、三年ごろと推定する地図に示された戸長役場所在地十五か所は左記のとおりである。( )内は現在地の推定か所。
千住中組 (仲町源長寺近く)
千住北組 (千住二、三丁目旧道筋)
弥五郎新田 (日ノ出町荒川川底あたり)
大谷田村 (大谷田町井関農機工場敷地内)
久左衛門新田(神明町旧道の中間やや中川寄り)
花又村 (内匠橋と大鷲神社の中間やや保木間寄り)
保木間村 (日光街道六月町と水神橋の中間右側)
伊興村 (増田橋より赤山街道舎人町入口までの中間左側)
入谷村 (鳩ヶ谷街道沿い入谷町の中間辺)
鹿浜村 (荒川川底)
沼田村 (下沼田町江北橋近く)
西新井村 (西新井大師近く)
本木村 (本木西町氷川神社近く)
梅田村 (旧奥州街道地図上左側東武線踏切近く)
島根村 (旧奥州街道地図上左側近く島根町派出所前方)
このころはすでに、郡区制がしかれ、郡役所が千住北組におかれていたので、十五か所の戸長は、現在区における各出張所的働きと、のちの村長を兼ねたようなものと思われる。
また明治十八年七月『渡辺府知事管内巡回記』により、当時南足立郡内の戸長、副戸長名の一部を知ることもできた。この巡回記は明治十八年七月の暴風雨で、東京市内や郡部に大被害があり、千住大橋、吾妻橋、六郷橋などが破損または流失した。時の知事(第九代)渡辺洪基は、江東方面の災害地をたずね、これを手はじめとして、同年十月から十一、十二月にわたって、管下六郡を巡察し、郡長、吏員はじめ土地の人びとと接見し、諸般の事情の報告を提出させた記録である。この中に各地区の戸長、副戸長などの氏名が出ているので、当南足立郡のそれらを調べてみた。
明治十八年七月九日付
南足立郡 千住中組(千住北組) 戸長 橋本知宣
同 千住壱丁目弐丁目三丁目(同) 戸長 永野彦右衛門
同 千住四丁目(同) 戸長 織畑方榖
同 千住五丁目 戸長 浅香成憲
同 沼田村、堀之内村、宮城村、小台村 戸長 清水謙吾
同 本木村 戸長 竹内充当
同 鹿浜村、鹿浜新田 戸長 鈴木溥報
同 弥五郎新田、伊藤谷村、五兵衛新田、次郎左衛門新田、小右衛門新田
戸長 大塚総左(孫左ともある)
同 久左衛門新田六ツ木村、辰沼新田、久右衛門新田、長左衛門新田、嘉兵衛新田
戸長 宇田川権次郎
同 大谷田村、佐野新田、長右衛門新田、上鎌原村、北三谷村、普賢寺村
戸長 金子松之助
同 花又村、内匠新田 戸長 青木荏三
同 保木間村外一ヶ村 戸長 増田梅蔵
同 伊興村 戸長 常田平作
同 舎人村、入谷村、古千谷村 戸長 花井巳之次郎
同 島根村外一ヶ村 戸長 森屋仲右衛門
同 栗原村 戸長 水野良民
同 西新井村外三ヶ村 戸長 吉沢安吉