二 足立の名称の変遷

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 江戸時代の足立区は、武蔵国足立郡淵江領と舎人領の一部の地で、呼び名も武蔵国足立郡何々村または武蔵国淵江領、あるいは舎人領何々村と、淵江領、舎人領を入れている場合がある。

 検地水帳のような公文書類には何々領は書いてないが、願出書類には何々領何々村と所領別が書かれているのが多い。

 明治当初、府、藩、県三治のとき、武蔵の国には東京府、川越藩、浦和県、忍藩、岩槻藩、小菅県、品川県、神奈川県、六浦藩などが置かれたが、当地区はその小菅県の管轄に属した。したがって武蔵国小菅県足立郡何々村というようになった。

 明治四年廃藩置県で藩がなくなり、県も整理され、小菅県は廃止となって東京府に包含されると、東京府の一部となり、大区小区制によって、現足立区は(舎人村だけ除いてほか全部)東京府第五大区の十七小区、十八小区、十九小区の三小区となった。たとえば東京府第五大区、第十七小区千住宿北組、同第五大区第十八小区大谷田村、同第五大区第十九小区西新井村というようになった。

 明治七年以後、十一大区制に改められると、足立区は第十大区、四小区、五小区、六小区の三小区にはいった。

 たとえば、第十大区第四小区千住宿中組、第十大区第五小区、梅田村、第十大区第六小区普賢寺村など(舎人村は明治八年埼玉県から東京府へ移管され、第五小区に編入された)がある。

 明治十一年に、郡区町村編制法が公布され、これに基づいて、大区小区制が廃止され、東京府は新たに十五区麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川)と、六郡(荏原、東多摩、南豊島、北豊島、南足立、南葛飾)に分画された。郡部では旧郡名が復活されたことになるが、異なる点は荏原郡を除いて、頭に東・西・南・北が冠されたことである。これは葛飾郡の場合、東京・千葉・埼玉の三県にわたり、各府県に同名の郡があってまぎらわしくなるので、南方にある東京府管内の葛飾郡を南葛飾、同様に千葉県分を東葛飾、埼玉県分を北葛飾と定めた。足立郡も東京府所属地が南足立、埼玉県分が北足立と決められた。南・北豊島郡もまた同じである。東多摩は多摩郡のうち東京府に属する部分が、その東方に所在していたからである。

 現在の三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)地区は、明治十一年の郡区町村編制法による郡区制施行当時は、神奈川県の管轄下にあったもので、明治三十六年になって、幾多の経緯の後、東京府に移管されたのであり、また東多摩は明治二十九年南豊島と合併して、豊多摩郡となったのである。

 明治二十二年、市町村制が実施され、東京府の十五区が東京市となり、各郡には新しく町村制がしかれた。わが南足立郡も、千住中組・北組ほか四十一か村が整理統合されて、一町八か村となり、同二十四年に、伊興村が淵江村から独立したので一町九か村となり、途中二か村が町制を施行したので、三町七か村となった。この区画は昭和七年市郡併合により東京市足立区となるまで、およそ四十二年間保たれ、区民にも親しまれ、現在でも古い居住者間には区内の区分に何々地区というように用いられている。

南足立郡

千住町  千住宿北組、千住宿中組(千住宿南組は北豊島郡になる)

西新井村 (昭和三年西新井町となる)西新井村、興野村、本木村

梅島村  (昭和三年梅島町となる)梅田村、島根村、栗原村、小右衛門新田

江北村  小台村、高野村、谷在家村、沼田村、堀之内村、鹿浜村、加々皿沼村、宮城村、鹿浜新田

花畑村  花又村、久左衛門新田、六ツ木村、嘉兵衛新田、久右衛門新田、辰沼新田、内匠新田、長左衛門新田

淵江村  竹塚村、六月村、保木間村

東淵江村 佐野新田、蒲原村、大谷田村、長右衛門新田、北三谷村、普賢寺村

綾瀬村  弥五郎新田、次郎左衛門新田、五兵衛新田、伊藤谷村

舎人村  古千谷村、入谷村、舎人村

伊興村  (明治二十四年淵江村より独立)伊興村

 昭和七年十月一日、市郡併合により、南足立郡三町七か村の地域は全部東京市に属し、そのまま足立区となる。一郡一区は東京府下の他郡にはない。区内各村の字(あざ)は町となり、ほとんど旧村名を用いた。しかし千住町のように大きい所は、新町名が誕生し、三十町名にもなった。

 昭和十八年七月一日都政施行により、新たに東京都足立区となった。