六 東淵江村

712 ~ 717

 本村は昔、淵江領に属し、江戸時代は徳川氏の所領として明治維新に至った。明治二年一月、小菅県の管轄となり、明治四年東京府の所轄に移り、第五大区十八小区となり、明治六年三月第十大区六小区に改正され、同十一年十一月、郡区町村編制法によって南足立郡に属し、明治二十二年五月、市制町村制が施行されて、佐野新田、大谷田、長右衛門新田、蒲原、北三谷、普賢寺の六か村を合併して一村となり、村制をしいた。東淵江の名称は元来淵江領の東部に属したことにより起こったといわれている。

 佐野新田 佐野新田は名主勘蔵の祖先、新蔵胤信が文禄二年(一五九三)に開発したので、家名をとって名づけたという。この新蔵は千葉勝胤の子で、のち当地に土着し、佐野氏に養われ、その後民間に下ったと、当家系図に載っている。そのころは民家七軒だけで、文化のころ二十一軒となり、検地は元禄八年(一六九五)大関大助が改めた。

 千葉勝胤の墓は伊興村にある。碑面下の方に宮城三右衛門、市原四郎兵衛、宮城忠左衛門、常田次左衛門等四人の名が彫ってあるが、小田原役帳にも千葉の所領とあるから、この四人は家人で、主君の追福のために建てたものであろう。この四人のうち、宮城三右衛門の子孫林蔵の家に残る私録の過去帳に、千葉次郎勝胤公永禄七甲子年(一五六四)正月八日と載せてある。勘蔵の家伝によれば、勝胤は里見義弘と北条氏康とが鴻ノ台で合戦したとき、永禄七年正月八日討死したという。しかし『小田原記』およびそのときの戦いを記したものに、勝胤が討たれたことは見えていない。また千葉家系図を記したものに、「この人は千葉介孝胤の子で、天文二年(一五三三)五月二十二日卒」とあり、またある人の所蔵した家譜によれば、「当家二十二代千葉介孝胤の嫡男で、はじめは太郎あるいは鶴寿丸と号し、後千葉介と改め、文明二年(一四七〇)生、享禄五年(一五三二)五月二十一日卒」とある。

 北三谷村 慶長年間に開墾したという文書を、大谷田村の名主常七が蔵すとある。(淵江之うちふけんしさん屋新田開之事。慶長十九年寅正月十一日、伊奈半十郎より川井平内記宛)これによれば古くは普賢寺に属したことが明らかであり、正保および元禄年度の改めには北三谷新田とのせてある。村と書き改めた年月は不詳。家数六十(文化のころ、以下同じ)。検地は元禄八年(一六九五)大関大助がただし、その後享保十一年(一七二六)、寛政九年(一七九七)に新田の改めがあった。

 普賢寺村 むかし普賢寺という寺領があったので名づけたものか、また普賢寺という寺があったので付けた名かはっきりしない。開発年代不詳。検地は慶長二十年(一六一五)、寛永四年(一六二七)というが、その奉行の名は不明。のち元禄八年この辺一帯に縄を入れたが、その後宝暦中(一七五一-)に改めたという。

 長右衛門新田 『新編武蔵風土記稿』によると「長右衛門新田ハ村民竜左衛門カ先祖長右衛門ト云モノ丶開発セシ故名ツクト云江戸ヨリ行程三里家数廿八東ハ中川ヲ限リテ葛飾郡新宿町ニ接シ南古隅田川ヲ堺トシテ同郡ノ亀有村ニ隣り云々」とある。のちこの地は長門町となるが、その町名の起こりは、開拓者浅田長右衛門の名の長と門を組合せて「長門」としたという。

 蒲原(かばはら)村 正保、元禄二度の改めには蒲原新田と載せてあるから、本村も近いころの開発であろう。民戸二十余、北三谷村の飛地三か所がある。元禄の検地は前村と同じ、その後宝暦十一年(一七六一)に新田の検地があったという。

 大谷田村 開発年代不詳。しかし「淵江領大谷田新田開之事」の文書があり、「元和二年辰十月十日、伊奈半十郎より大谷田新田名主宛」のもので、大谷田村以前のものか、または新田開拓のものか、やや疑問がある。家数百。検地など前村と同じ。その余は享保十一年(一七二六)、寛政四年(一七九二)に新田の検地があった。村の中間に葛西用水堀が南北に貫いている。佐野新田に当村の飛地があり、これは享保の検地から当村の地となったという。村の東境を北から南へ中川が流れている。 

 明治二十二年、町村制施行で

 佐野新田 字上耕地のうち三四三~三五四、字沼田新田のうち四一七~四二一を除く。

 大谷田村 字貝瀬耕地のうち一八三七~一八四一を除く。

 長右衛門新田

 北三谷村

 蒲原村

 普賢寺村 字三枚田耕地のうち 八一三~八一四を除く。

 久右衛門新田の飛地 字東耕地のうち一〇九~一一三、一二一~一二二。

 長左衛門新田の飛地 字西耕地一一八、字東耕地一六三

 辰沼新田の飛地 字居廻耕地のうち一八九

 六ツ木村の飛地 字広場耕地 一一二三~一一二五

以上を合併して南足立郡東淵江村と称した。

東淵江村の大字は次のようである。

 佐野新田(旧小名、上、中、下、沖尻耕地、貝瀬耕地)

 大谷田(旧小名、上、中、下、碇り耕地、八百免耕地、貝瀬耕地)

 長右衛門新田(旧小名、イカリ耕地、宮ノ耕地、稗田耕地)

 蒲原(旧小名、東耕地、内谷耕地、西谷耕地、ヒへ田耕地)

 北三谷(旧小谷、三枚田耕地、高圦耕地、下河原耕地、内戸耕地、横道耕地、宮田耕地)

 普賢寺(旧小名、河内開耕地、ビワ田耕地、四町田耕地、三枚田耕地)

明治二十八年に大字名の改称(別項)があり、越えて昭和七年十月、市域拡張に際し東京市足立区に編入し、改称町名は次のようである。次いで昭和十八年七月、都制施行とともに東京都足立区の区域内となった。

 佐野町 本町は東淵江村大字佐野新田一円の地で、小字に宅地添耕地、上耕地、広場耕地、土腐耕地、西耕地、居廻耕地、奥谷耕地、沼田耕地などがあった。

 大谷田町 佐野町の南にあり、東淵江村大字大谷田一円の地で、小字に貝瀬耕地、稗田耕地、前谷耕地、西碇耕地、東碇耕地、南碇耕地、圦際耕地、堤田耕地、八百免耕地などがあった。町の東は中川に限られている。区域内に多数の長門町飛地がある。昭和三十五年四月一日大谷田町一丁目(大谷田町の一部、長門町の一部合併)大谷田町二丁目(大谷田町の一部、長門町の一部合併)大谷田新町一丁目(大谷田町・長門町・蒲原町の各一部合併)大谷田新町二丁目(大谷田町・長門町・蒲原町の各一部合併)の四町が新しくでき、同年同月八日に大谷田町三丁目(大谷田町・長門町・蒲原町の各一部合併)が誕生、大谷田町は在来の大谷田町と計六か町に分割された。

 長門町 大谷田町の南にあり、東淵江村大字長右衛門新田一円の地で、小字に東居村耕地、西居村耕地、堤外耕地などがあった。町の東は中川に限られている。

 蒲原町 大谷田町の西および南にあり、東淵江村大字蒲原一円の地で、小字に東一番耕地、東二番耕地、内谷一番耕地、内谷二番耕地、西谷耕地、一番割耕地、屋敷耕地、北碇耕地、南碇耕地などがあった。区域内に北三谷町および長門町の飛地がある。昭和三十五年四月八日蒲原町一丁目(大谷田町・長門町・蒲原町の各一部合併)、蒲原町二丁目(蒲原町の一部と北三谷町の一部合併)、蒲原三丁目(蒲原町の一部、北三谷町の一部合併)となり、在来の蒲原町をあわせて五か町となった。

 北三谷町 蒲原町の西および南にあり、東淵江村大字北三谷一円の地で、小字に関向耕地、宮田耕地、内戸越耕地、下河原耕地、下河原宮前耕地などがあり、区域内に普賢寺町の飛地がある。昭和三十五年四月八日、北三谷町一丁目(北三谷町の一部、蒲原町の一部合併)、北三谷町二丁目(北三谷町の一部、蒲原町の一部合併)により在来の北三谷町は、北三谷町、同一丁目、同二丁目の三か町となった。

 普賢寺町 北三谷町の西にあり、東淵江村大字普賢寺一円の地で、小字に三枚田耕地、四町田耕地、枇杷田耕地、宿添耕地、河内開耕地、村添耕地などがあった。