明治維新以前は徳川氏の所領に属し、明治二年、小菅県の管轄となり、同四年東京府の管轄となり(第五大区十八小区、のちに第十大区六小区に属す)、同十一年十一月南足立郡に属した。明治二十二年、市制町村制の実施となり、花又、内匠新田、久左衛門新田、六ツ木村辰沼新田、久右衛門新田、長左衛門新田、嘉兵衛新田の八か村を合併して村制をしいた。
花又はむかし江戸袋庄と唱え、いい伝えに花又村および伊興、本木の三村を淵江郷と呼んだとある。以前は花俣と書いたが、いつのころからか花又の文字を用いるようになった。『尾陽雑記』(新編武蔵風土記稿)正平七年(一三五二)の文書として
武蔵国足立郡花俣郷(秋山次郎跡)事為勲功之賞所宛行也者任先例可致沙汰之状如件
正平七年五月廿七日
源朝臣
水野平太殿
と載せてあり、正平(一三四六-)のころ、水野平太という者の所領であったことがわかる。徳川氏入国後、料所に属し、元禄八年(一六九五)、明和三年(一七六六)、安永二年(一七七三)、寛政九年(一七九七)に新田検地があった。内匠新田は、正保改定の国図に、すでにその名が載せられてあるので、開発はそれ以前であったことがわかる。伝えるところによれば芦川内匠(名主孫左衛門先祖)というものが甲斐国からきて、この地を開拓したので、このように名づけたというが年代は詳かでない。検地は元禄八年である。
久左衛門新田は、慶長十五年(一六一〇)福島正則の家臣、星野又太郎(一名彦六)がこの地にきて開墾し、当時土合村と称し、のち慶安三年(一六五〇)、その子久左衛門のとき、久左衛門新田と称するに至ったと伝えている(南足立郡誌による)。正保、元禄改定図には久左衛門新田とその記載がある。しかし『新編武蔵風土記稿』には名主彦六の先祖は足立郡笹目村(現在、北足立郡蕨町の西に下笹目村あり)からきて、寛永七年(一六三〇)に開墾したという。そのころは土合村と唱えたとある。
六ツ木は天正のころ、天野周防守国忠外五騎がこの地に土着し、はじめてこの地を開拓したので六騎村と称したのを、元文のころから六ツ木村と唱えたという。しかし正保、元禄の改めには六ツ木新田とあり、辰沼新田は寛永七年、星野彦六が開拓して土合村(土合新田ともあり)と称したが、正保年間、辰沼新田と改称したという。正保改定図にはなく、元禄年中改定図に記載されている。
長左衛門新田および久右衛門新田は、村民吉野長左衛門、浅野久右衛門の二人が、萱野の中を開いたといわれ、はじめ谷中新田と呼び、のち分れて長左衛門新田 (土地の人は下谷中新田といった)、久右衛門新田(土地の人は上谷中新田といった)となった。名主久右衛門の先祖久右衛門は寛永十九年の死であるから、開発は慶長年中よりあとであろう。長左衛門新田の検地は寛永四年改め、元禄八年改めとなっている。久右衛門新田は元禄の改めからのちまた新田ができて、明和三年(一七六六)伊奈備前守がただしたという。
嘉兵衛新田は慶長、元和のころ、稲毛領(神奈川県橘樹郡のうち)から伊藤嘉兵衛というものがきて、開墾したので、俗にこの名を得たという。嘉兵衛は寛永十年四月二十八日死し、その墓が現在もある。検地は元禄八年、大関大助改め、その後少し新開の地がふえてた。享保十八年(一七三三)、筧播磨守がこれをただしたという。
次の地域を合併して南足立郡花畑村と称した。
内匠新田 花又村、字大白耕地(四五三三~四五七一、四五八三~四五九四、四五九九~四七二四)、前谷耕地(二二五四~二二五五、二二五六~二二六四)、界田耕地のうち四〇八八を除く。
久右衛門新田 字東耕地のうち 一〇九~一一三、一二一~一二二を除く。
長左衛門新田 字西耕地一一八、字東耕地一六三を除く。
辰沼新田 字居廻耕地のうち 一八九を除く。
久左衛門新田
六ツ木村飛地、字広場耕地のうち 一一二三~一一二五
嘉兵衛新田 字西新川端耕地のうち 一一四九を除く。
竹塚村ノ飛地、字新川添耕地のうち 二一一六~二一二一
保木間村の飛地 字野耕地のうち 三九〇四、三九二〇~三九三五、三九九八、三九九九、四〇九八~四一〇六、四二五二、四二五三、四二五七、若宮耕地のうち三六~七三、内耕地七三九~七四一、二ツ屋耕地のうち 四二七五~四二七七、四二八〇~四二九二、四三〇四
佐野新田の飛地 字上耕地のうち 三四三~三五四
沼田耕地のうち四一七~四二一 大谷田村の飛地、字貝瀬耕地のうち 一八三七~一八四一
大字と小字別は次のとおりである。
大字 花又 小字 榎戸、下宿、前通、堤根、中組、会組、外河原、鷲宿(旧小名、鷲宿、榎戸、堤根、中組、外河原、シホ沼、会)
昭和六年九月二十七日、府告第六一四号により、花畑村字区域名称変更改称、昭和七年十月市域が拡長され、東京市足立区に編入、昭和十八年七月都制施行とともに東京都足立区の区域内となった。
花畑町 花畑村大字花又一円の地で、小字に桑袋耕地、村北耕地、村中耕地、前谷耕地、前耕地、境田耕地、会谷耕地、新川東耕地などがあった。綾瀬川が本町の東を流れ、のち、本町を二分している。昭和二十七年八月二日、耕地整理に伴い、内匠本町および保木間の一部を編入した。
東加平町 花畑町の南にあり、花畑村大字嘉兵衛新田のうち、字井堀添耕地(一~二六六ノ二)、菖蒲沼耕地(二六七~五三〇)、東新川端耕地(五三一ノ一~八四一)などをあわせた地で、町の西に綾瀬川があり、町名は嘉兵衛の字を変更したものである。
西加平町 東加平町の西にあり、花畑村大字、嘉兵衛新田のうち、字西新川端耕地(八四二~一一四八ノ二)、奥耕地(一一五〇~一三二四)、二ツ家耕地(一三二五~一三四四)、新川耕地(一三四五~一三五〇)をあわせた地で、東に綾瀬川がある。
上谷中町 東加平町の東にあり、花畑村大字久右衛門一円の地で、小字に東耕地、西耕地などがあった。
下谷中町 東加平町および上谷中町の南にあり、花畑村大字長左衛門新田一円の地で、小字に東耕地、西耕地があった。
内匠本町 花畑町の東、綾瀬川沿いの地である。本町は花畑村大字内匠新田のうち、合ノ谷耕地(一~一○○)の地である。
内匠町 東加平町の北にあり、花畑村大字内匠新田のうち、町張耕地(一〇一~二六四ノ二)の地である。
神明町 花畑町の東および北にあり、花畑村大字久左衛門新田一円の地。小字に外河原耕地、内根柄耕地、松和などがあった。町の西に綾瀬川が流れ、北に久右衛門新田小溜井がある。
辰沼町 上谷中町の北、東加平町の東にあり、花畑村大字辰沼新田一円の地で、小字に奥谷耕地、居廻耕地、辰沼耕地などがあった。
六木町 神明町の東にあり、花畑村大字六ツ木一円の地で、小字に外河原耕地、大上耕地、根郷耕地、上桜木、南桜木、新田耕地、広場耕地、新広、新上などがあった。東に中川、北に桁小溜井がある。
東谷中町 昭和三十五年四月一日、長門町、蒲原町、北三谷町、上谷中町、下谷中町の各一部をあわせて、東谷中町という新町名ができた。
北加平町 昭和三十七年四月一日、花畑町、神明町、内匠町、東加平町の各一部をあわせて、北加平町ができた。
神明南町 昭和三十八年七月十日、花畑、神明町、辰沼町、内匠町の各一部が併合して、神明南町となった。