本村はむかし淵江領に属していた。天文、天正(一五三二-一五九一)のころには淵江の郷と呼ばれた。古老の旧記によれば、大同年間(八〇六-八〇九)、山城の国人八名がこの地に来住し、木によって堤を築いて土地を開拓し、ここに一部落をなすようになったので、保木間の名が起こったといわれている。
のち、住民が離散したが、元和(一六一五-一六二三)のころには、なお十九軒残っていたという。今から千百余年前、平安時代の昔に、すでに一村落を成していたことがわかる。保木間については、永禄二年(一五五九)の『小田原役帳』に「千葉殿十五貫文、下足立保木間村」と見え、古くは千葉氏の所領であった。徳川氏入国後はその所領となり、検地は元禄八年(一六九五)大関大助改め、のち新開の地があって、明和三年(一七六六)伊奈備前守が改めをした。竹塚村は村名および開拓年月日ともに詳かではない。元禄八年、大関大助が検地した。徳川幕府が大政を奉還し、明治の新政となるや、明治元年七月、武蔵知県事支配、同二年一月小菅県の管轄となり、明治四年十一月小菅県が廃止され、東京府の所轄となり、同六年三月第十大区、五、六小区に改められた。明治十一年十一月、郡区町村編制法により南足立郡に属した。
明治二十二年五月、市制町村制が施行されて、保木間、竹塚、六月、伊興の四か村を合併して一村とし、旧領名を襲用して淵江村と称し、村制をしいた。
次の地域が合併して南足立郡淵江村となった。
竹塚村 字新川添耕地のうち 二一一六~二一二三を除く。
保木間村 飛地字野耕地のうち 三九〇四、三九二〇~三九三五、三九九八、四〇九八~四一〇六、四二五二、四二五三、四二五七、若宮耕地のうち 三六~七三、内耕地 七三九~四七一 二の屋耕地 四二七五~四二七七、四二八〇~四四七七を除く。
六月村 字原島耕地のうち 一一二九、一三三〇を除く。
花又村の飛地 字大白耕地 四五三三~四五七一、四五八三~四五九四、四五九九~四七二四、前谷耕地 二二五四、二二五五、二二五六~二二六四、界田耕地のうち 四〇八八、嘉兵衛新田の飛地字新川端耕地のうち 一一四九。
次いで明治二十四年四月一日(府令第三〇二号)淵江村のうち、旧伊興村を分割し、新たに伊興村を置いたため、保木間、竹塚、六月の三字をもって一村とした。伊興は土地が西方に偏在し、人情風俗も自から異り、悪水、用水の関係上、前記三村と利害が相容れなかったという。
昭和七年十月足立区成立で、次の町名に改称された。
保木間町 淵江村大字保木間一円の地で、小名に若宮耕地、内耕地、八十町耕地、野耕地、大白耕地などがあった。昭和二十七年八月二日、耕地整理に伴い、竹塚町および花畑町の一部を編入した。
竹塚町 保木間町の西にあり、淵江村大字竹塚一円の地で、小字に三ノ輪耕地、駒形耕地、村附北耕地、村附南耕地、および本町の飛地として綾瀬川沿いに長田耕地、五反田耕地、新川耕地などがあった。また本町の新綾瀬川沿いの飛地の南部分は六町に属した。
六月町 保木間町、竹塚町の南にあり、淵江村大字六月一円の地で、小字に村廻耕地、辻元耕地、平野耕地および飛地原島耕地、六町などがあった。町の中央を国道四号線が南北に貫いている。
六町 昭和十一年十月十五日、竹塚町の飛地の大部分と、保木間町の飛地、六月町の飛地(旧小字六町)花畑町の飛地をあわせた地で、六月町の東にある。
西六町 昭和三十八年九月一日、六町、保木間町、竹塚町、花畑町、東栗原町の各一部をあわせて、西六町ができた。
保塚町 昭和三十八年九月一日、竹塚町の一部、保木間町の一部を合併して、新しく保塚町ができた。