本村の開拓の年代は詳かでないが、昔は千葉氏の所領であった。『小田原役帳』には、「千葉殿三十貫、下足立、伊興村」とあり、天正十八年(一五九〇)徳川氏入国後は、その所領(御料所といった)となったが、天和元年(一六八一)高厳院殿(四代将軍夫人)の御供料として、三百石余、貞享元年(一六八四)厳有院殿御霊屋料(四代将軍家綱)として五百石余を東叡山に付せられた。その余りは料所で代官支配地であった。こうして一村が御領と神領の二つに分かれ、あたかも二村の姿をしていた。元禄八年(一六九五)大関大助が検地し、東叡山に付せられた所は寛延二年(一七四九)、代官戸田忠兵衛が立合い、田村権右衛門が改めた。高札場は村の中程に二か所あった。かくて明治維新となり、明治二年一月には、小菅県の管轄となり、第四区の区域に属し、同四年十一月(実際移管は明治五年二月)東京府の所管に移り、移管後第五大区十九小区に編入、明治六年三月、第十大区五小区と改められた。同十一年十一月郡区町村編制法により従来の伊興村、伊興村上知は伊興村となり、南足立郡に属した。同二十二年五月市制町村施行により淵江村に合併されたが、越えて同二十四年四月一日に至って淵江村から独立し、元の伊興村をもって一村とした。
小字は次のとおりである。
横沼 下り戸、早房、北根、大西島
小西島(旧小名、早房厨子、会田、北根、下戸、西島、横沼)
のち、昭和七年十月市域拡張の際、東京市足立区となり、次の十六町に分かれた。昭和十八年七月、都制の施行とともに、東京都足立区の区域内となった。
伊興町谷下 伊興村の最北端の地で、字谷下の耕地(一~三七四)、土地なまりで「やじった」と呼ぶ。
伊興町聖堂 伊興町谷下の南にあり、伊興村字聖堂耕地(三七五ノ一~五一七)の地である。
伊興町五庵 伊興町聖堂の東南にあり、伊興村大字五庵耕地(五一八~五九一)の地である。
伊興町狭間 伊興町五庵および聖堂の東にあり、伊興村字狭間耕地(五九二~九四〇ノ三)の地である。
伊興町白幡 伊興町狭間の東にあり、伊興村字、白幡耕地(九四一ノ一~一〇九三)の地である。本町内に白旗(幡)塚があり、この塚によって白幡耕地と字(あざ)した。
伊興町前沼 伊興町白幡の南にあり、伊興村字前沼耕地(一〇九四~一四八一)の地である。
伊興町見通 伊興町前沼の南にあり、伊興村字見通耕地(一四八二~一五六一)の地である。
伊興町大境 伊興町見通の南にあり、伊興村字大境耕地(一五六二ノ一~二〇四六)の地である。
伊興町諏訪木(すわぎ) 伊興町大境の西にあり、伊興村字諏訪木(二〇四七~二五一〇)の地である。
伊興町一丁目 伊興町諏訪木の北にあり、伊興村字一丁目(二五一一ノ一~二七二九ノ二)の地である。
伊興町五反田 伊興町一丁目の北にあり、伊興村字五反田(二七三〇ノ一~二九七九ノ二)の地である。
伊興町本町 伊興町五反田の東にあり、伊興村字村廻耕地(二九八〇~三七六九)の地である。
伊興町吉浜 伊興町本町の北にあり、伊興村字吉浜(三七七〇~三九〇一)の地である。
伊興町番田 伊興町吉浜の西にあり、伊興村字番田(三九〇二~四〇八六)の地である。
伊興町京伝 伊興町五反田の西にあり、伊興村字京伝(四〇八七~四三九四ノ二)の地である。
伊興町槐戸(さいかちど) 伊興町京伝の南にあり、伊興村字槐戸(四三九五ノ一~四六四七)の地である。