本町は南葛飾郡南綾瀬町大字柳原の地で、小字に一番、二番、三番、四番などがあった。千住旭町、千住東町の東にあり、東に荒川が流れている。
昔は柳原村といい、明治二十二年五月市制町村制施行の際、堀切村、小谷野村、柳原村、小菅村、下千葉村外数村の飛地をあわせて南綾瀬村となった。
昔、平氏一門の領有に属し、葛西氏の治下にあって、御厨領であったが、北条氏が武蔵、相模の地を占領したとき、堀切村は大胡(宮内少輔)の所領となり、千葉村は遠山丹波守の領有となった。他村は後年の開拓である。
柳原の村名は『葛西志』によれば、昔、柳樹の多い原であったからという。なお、昔は小谷野村と合村していた。天正十八年(一五九〇)、徳川家康が関東に封ぜられ、入国後はその所領となり、三百年間その領有として関東代官の治下にあった。文化・文政ごろには民戸三十二、東西四町半(〇・五キロ)南北六町(〇・六キロ)ほどで、小名(こな)には上、中、下があった。明治維新となり、武蔵知県事の支配下に置かれ、次いで明治二年小菅県が設けられるに及び、その所管となった。
さらに同四年十一月同県が廃せられて、東京府の管轄となった。小菅県からの受取り(明治五年二月八日)は、柳原村の反別三十二反八敵歩、高、百八十九石三斗三升五合であった。なお『東京府志料』明治五年調ベの戸数は三七、人口二百六十人(男百二十、女百四十)とある。同年大区小区制により第六大区(千住口十一小区)にはいり、明治六年三月改正されて十一大区一小区に編入された。明治十一年十一月郡区町村編制法により南葛飾郡となり、次いで明治二十二年五月市制町村制が実施されて、綾瀬村の大字となった。昭和七年十月一日市域拡張のため東京市葛飾区に属した。
それ以前荒川放水路の開さくにより、二分され、柳原は放水路以西に位することになった。昭和九年六月一日足立区に編入された。昭和三十七年三月一日柳原町は柳原町一丁目(柳原町の一部と千住曙町の一部合併)と柳原町二丁目(柳原町の一部)の二か町に編制がえされた。
昭和九年柳原町が東京市足立区編入の際、東京府知事の告示により、その区域は次のようである。
「葛飾区 柳原町一円 宅地 五八、〇四五坪七四 田、畑一〇反六(畝)一五(歩)、鉄道軌道用地 一四反九(敵)二六(歩)、社寺地 一反八(敵)一三(歩)、雑種地 一反四(畝)〇八(歩)。
右ニ沿接スル官有無番地五九、四三一坪三〇、小谷野町(後改称柳原町)官有無番地(河川敷)七、六九三坪五〇、合計一三三、八四二坪五四。
右足立区へ編入。
「葛飾区学区財産」葛飾区柳原町九十二番地所在、
一、南綾瀬第二尋常小学校舎及附属建物。
右足立区学区ニ編入。 」
なお、小谷野町官有無番地(河川敷)は柳原町と改称した。昭和九年境界変更に伴い、隅田町の一部が足立区にはいり、千住曙町の一部が向島区にはいり、日ノ出町一・二丁目の一部分と伊藤谷本町の一部は葛飾区にはいり、柳原町一円が足立区にはいったが、これは三区にかかわる大きな変革であった。