西新井地区

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 30 総持寺(西新井大師) 西新井一丁目一五の一にあり、真言宗豊山派で、正しくは「五遍山遍照院総持寺」と号する。天長三年(八二六)弘法大師の創建、寺格は別格本山、江戸時代から関東七か寺の一つで、川崎の大師とともに開運、厄除の霊場として名高い。当寺の縁起については、伝説の部「西新井の起こり」にくわしい。本尊は十一面観世音像、副仏は大師の自作像である。慶安元年(一六四八)、寺領二十石の御朱印を賜わり、元文二年(一七三七)、八代将軍吉宗は当山に成られ、放鷹(ほうよう)の際のお膳所となった。境域約四九○○平方メートル、西新井の地名の起こりの閼伽井(あかのい)を始め、いろいろな建物がある。山門(仁王門)は、木造二階建て、銅板葺き入母屋造り、総檜で江戸初期のものという。本堂(大師堂)は、間口約二三・六メートル、奥行約二〇メートル、廻縁を付した江戸時代中期の木造平屋建て、瓦葺入母屋造り総檜の大伽藍であった。そのほか、講堂(書院)、三重宝塔(栄螺(さざえ)堂)、鐘楼、不動堂、など由緒ある建物、高野山模造の奥の院などがある。寺宝の蔵王権現毛彫の銅板は、藤原時代の代表的作品として国宝に指定され、上野の国立博物館に移されている。その外十畳余の大曼荼羅、北斉筆の弘法大師御成道図、谷文晁の松の襖(ふすま)、酒井抱一の洋犬の扁額、月岡芳年の百組火消出初式図など、貴重な美術品がある。また山門をはいって左手にある塩地蔵は、江戸時代から疣(いぼ)とりに霊験ありと伝えられ、堂前の塩をいただいて帰り、本復後は倍の塩をお返しするという。都内でも名木に数えられている大楠があり、また四季の花樹が栽培せられ、なかでも牡丹は千二百株に及び、樹令数百年の藤、荒川堤から移植した五色桜とともに、花季は行楽の人でにぎわう。毎月一日、二十一日の縁日には植木市をはじめとする露店が立ち、近在近郷の参詣人で雑踏する。なお苑内の樹木に放ち飼われた栗鼠(りす)数十匹は、都下でも珍しいといわれている。

 昭和四十一年五月二十五日、夜半十一時、中学生の火遊びによる失火から、この壮大な本堂は炎上してしまった。幸い他の建造物には延焼せず、本堂内の十一面観音像は住職によって運び出され、また貴重な掲額、美術品などはすべて類焼を免れた。

 この焼け落ちた屋根を、トタンで覆い、焼け残った柱を補強して、仮本堂とし、同年七月二十一日に遷座法要を行なった。ここ数年の後には仮本堂のうしろに鉄筋造りの大伽藍が再建される予定である。


 31 安穏寺 島根四丁目四の一にあり、日蓮宗で、本尊は祖師奠定(てんじょう)の曼荼羅および祖師像である。天下長久山国土安穏寺と号し、応永十七年(一四一〇)の創建で、開山は経王院日通、開基は当淵江領主千葉太郎満胤である。創建当時は長久山妙覚寺と号した。開山日通については、『安穏寺縁起』にくわしい。

 元和年中(一六一五-一六二三)二代将軍秀忠鷹狩のとき、御膳所となり、三代将軍家光は数度にわたって来山、慶安年間(一六四八-一六五一)八世蓮光院日芸上人は、宇都宮釣天井予言の功により、御朱印と、現山寺号を賜わった。本寺は奥州日光街道に面し、諸大名の中食休憩に便し、その来寺が頻繁であった。かっては当地鎮守鷲神社の別当も兼ね、寺運隆昌、現在に及んでいる。現在の本堂、庫裡、客殿などは昭和二年から六年の間に建築されたものでなお整備中である。当寺は葵の紋の使用を許され、寺宝に日蓮上人断簡、大涅槃図、将軍家使用の膳椀一式、加藤清正書、日蓮上人筆の板碑などがある。


 32 来迎寺 島根三丁目一一の九にあり、真言宗豊山派で、本尊は阿弥陀如来、建久六年(一一九五)の草創というが、天和年中(一六八一一六八三)宥如和尚を当寺第一世として再興した。照凉山阿弥陀院と号し、境内に子育地蔵堂がある。門前脇に樹令四百年以上の榎(えのき)があり、門前にある庚申塔は、寛文六年(一六六六)、天和二年(一六八二)、元禄四年(一六九一)のものである。荒川辺八十八か所の第四十番の札所にあたる。

 33 普門寺 島根四丁目一六の一にあり、真言宗豊山派で、本尊は十一面観音菩薩、運慶の作という。延慶年間(一三〇八-一三一〇)の創建で、御嶽山正法院と号する。文政七年(一八二四)の宝篋印塔がある。

 34 満願寺 栗原町九二七にあり、真言宗豊山派で、もと西新井総持寺の末寺。天正七年(一五七九)の創建といわれ、本尊は地蔵菩薩、小野篁の作という。高尾山と号し、荒川辺八十八か所の第三十九番の札所にあたる。当寺に寛永五年(一六二八)の墓碑、貞享二年(一六八五)の石地蔵、宝暦四年(一七五四)の漱盥石がある。

 35 徳寿院 栗原町四四三にあり、真言宗豊山派で、もと西新井総持寺の末寺、本尊は阿弥陀如来、無量山栗原寺と号する。開山は栄祐和尚(享保七年(一七二二)十二月二十四日示寂)。現在の本堂、庫裡は明治三十八年の建築である。寛文十一年(一六七一)の墓碑、元禄十四年(一七〇一)の庚申塔がある。

 36 増福寺 青井二丁目三二の八にあり、真言宗豊山派で、本尊は阿弥陀如来、空也上人の作という。元和元年(一六一五)、慶竜法印の開山で、安立山正法院と号する。宝物に不動明王があり、これも空也上人の作といわれる。墓地に宝暦三年(一七五三)九月五日法印快伝の墓碑がある。

 37 延命寺 竹塚五丁目二六の一四にあり、真言宗豊山派で、如意山普門院と号する。本尊は延命地蔵で、天文二十年(一五五一)九月、中興開山宥慶上人によって再建されたという。元禄三年(一六九〇)の墓碑、享保十二年(一七二七)の庚申塔がある。

 38 西光院 竹の塚一丁目三の一六にあり、真言宗豊山派で、本尊は十一面観世音である。正入山積善寺と号し、もと西新井総持寺の末寺、開基は河内与兵衛胤盛で、寛永七年(一六三〇)八月十二日に没した。今の本堂は昭和二十八年の建築である。境内の金剛界大日如来は、元禄十二年(一六九九)九月の鋳造で、唐金の大座像、しかもその相、端厳ですぐれている。寛文三年(一六六三)の石碑、享保十年(一七二五)の漱盥石がある。


 39 万福寺 竹の塚一丁目一の一五にあり、真言宗豊山派で、慈照山大悲院と号する。本尊は聖観世音、宝暦(一七五一-一七六三)のころの創建といわれ、寛文八年(一六六八)十月十五日の墓碑がある。当寺は幕末のころ、寺小屋が開かれ、明治九年竹塚に竹島小学校が創立されたとき、当寺がその仮校舎にあてられた。

 40 常楽寺 竹の塚一丁目一〇の一六にあり、真言宗豊山派で観林山と号する。本尊は聖観自在菩薩、寛永のころ(一六二四-一六四三)の創建で開基は当村の人、河内与兵衛胤盛である。当寺に当地の文人、竹塚東子の墓(文化十二年十一月十四日没)がある。ほかに寛文二年(一六六二)の墓碑、天保十一年(一八四〇)の庚申塔がある。

 41 炎天寺 六月町二にあり、真言宗豊山派で幡正山成就院と号する。本尊は阿弥陀如来、西新井総持寺の末寺である。天喜年中(一〇五三-一〇五七)源義家の創建というが、開山の僧は不明である。宝物として薬師如来、不動明王および寛永七年(一六三〇)二月の銘がある細彫阿弥陀仏の碑がある。境内に五輪塔の墓石があり、その南無阿弥陀仏の名号は、祐天上人の真筆を刻したものという。また境内には樹令約六百年の榎がある。この炎天寺は一茶の七番日記に記されているところから、近年一茶ゆかりの寺として、文人俳人でにぎわうに至った。(「風俗と文化」の章参照)