鹿浜獅子舞の歴史 この獅子舞の由来は、文献流失のため詳(つまびら)かではないが、江戸時代の元禄のころに起こり、寛政から文化・文政のころ非常に盛大に行なわれたようである。太鼓の胴木に元禄四年(一六九一)八月と書いてあり、また寛政十年(一七九八)九月十五日に、上野東叡山寛永寺門跡宮前で行なったという記録がある。
獅子および花笠獅子の面相は、猪(しし)面に近く、朱塗りが雌獅子、黒塗りが中獅子、大獅子である。
一人一匹の獅子で大獅子、中獅子、雌獅子と三匹一対であることは花畑鷲宿のと同じである。服装および花笠もだいたい共通しているが、おもな相違点をいうと、獅子の頭髪が鷲宿のはたれさがっているのに対し、鹿浜のは羽毛が突き立っている。また、獅子頭の下につく胴衣が冠る者の上衣になっており、袴(はかま)、手甲、脚絆、足袋はみな無地の黒色である。
花笠は、鷲宿の丸いすげ笠を用いたのに対して、ここは正方形衣装彫木製の特別笠を用いている。獅子の持つ太鼓はみな同じで、ただ太鼓の胴衣に獅子の上衣と同じ唐模様の布をつける。笠につける布も模様地錦紗を用い、鷲宿のが前開きなのに対してこれは四方垂れである。花には日月の別はなく、笠の四隅に立ち上りの桜花と、中央に牡丹花を一様につけている。かぶる人は男子で、相対的に鷲宿のにくらべ服装や様式が整っている。
舞の時期と場所 この獅子舞は、昭和三十八、九年ごろから行なわれなくなったが、それまでは、十月十五日、北鹿浜町島、糀屋(こうじや)の祭で、この地区の鎮守である氷川神社境内で行ない、同月二十五日、同東部落の祭に、この地域の鎮守、天満宮社の境内で行なっていた。
舞は両社神前の正面で行なわれる。鷲宿シシは本殿に向って正座するが、ここでは本殿を背に観客に向って正座する。四本柱その他獅子舞の道具だては特別にはないが、鷲宿の数種の舞に対して、ここの舞は笛音によって一貫した流れを表現し、略化され全体化されている。
舞の順序と概要
①導 道を歩む儀で舞というより行進といった方がよく、田楽から出た儀である。(この地で獅子烈道の儀というのは、獅子が舞場まで来る行進の順序、つまり花笠、笛、獅子の順序をいう。)
②門罹(かか)り 門をくぐるときの儀、すなわち、神社の鳥居をくぐるときの儀で、これも舞というより笛の音に調子を合せた行進の一種である。
③堂場が猥(みだり) 門をはいり、舞場におそるおそる進む儀で、前者と同じである。
④神楽(かぐら) 本笛で大獅子は御幣をとり、刀を振りながら四方をへいげいする。悪魔降伏の意味を示す舞である。
⑤神楽歌登路楽(とうろうれい) 悪魔降伏の儀がすんで、村民太平を神に祈る儀である。神楽歌は、「千早ぶる神の囲垣に松植えて松もろともに氏子繁昌」という。
⑥欣喜楽(つんつくれい) 泰平欣喜を示す儀である。舞は儀式のように単調で雄獅子が舞う。
⑦飛路楽(ひろらあ)、⑧非路楽(ひろれい) 天下泰平の世を示し、婦女子はようやく時を得て、恋慕の心おこり、色情の舞にはいる。そして雌獅子が花笠に囲まれてその栄華を示し、雄獅子がこれを見て狂乱する舞である。
⑨修礼加々(しゃれがかか)
⑩所作(しょさ)泰平の栄華の夢が長く続いて、雌獅子は花に囲まれ、盲念(もうねん)を深くし、「キリ」(笛)に至ると、ますます盲執の深い境地にはいる。
⑪登楼楽(とうろうれい)
⑫落し 舞法は諸種あるが、ここでは、この終りに小声で歌う。
⑬巻上(まきあ)げ 天下再び納まり、祝言の笛に泰平の舞をする。
⑭岡崎岡崎の笛で四海安泰を喜び、舞を終了する。
鹿浜獅子の特徴本町の獅子舞は、泰平安穏欣喜(きんき)を奉納するもので、豊作とか雨乞、占事(うらないごと)、呪言(のろいごと)とかを表現する舞ではない。江戸時代から舞の数も多く、泰平を表現し、農村文化の一つとして発達してきた。
しかし昭和三十七年九月を最後に、現在は行なわれなくなった。その原因は、この舞い手の継承者がいないためである。もともとこの舞は、正式に舞うと四時間以上かかり、しかもかなり激しい動きの舞のため、体力的に二十歳代の若者でないと続かない。また、この舞を全部習得するには、少年期からの訓練が必要で、その訓練が夜、学校や勤めが終ってから行なわれるため、神につかえていれば幸福になれるといわれていた昔と違って、いまではすすんで習い覚えようとする子どもや青年がいなくなったからである。