日光街道最初の宿場である千住に、明和二年(一七六五)八月「飯盛女は一軒につき一人の枠(わく)をはずす」という許可がでて以来、明治三十七、八年ごろまでは、旅人、船頭、近郷の若者相手の飯盛女で賑(にぎ)わい、盛んな時には三百人近くもいたそうである。
〽 一に中田屋/二に竹吾妻/三に相模屋でとどめさす
と歌われた遊廓は千住の花であった。二里(八キロ)離れたところに吉原というものがありながら、千住が栄えたのは、日光街道の出入口であったこと、また、宿の南を荒川(現隅田川)が流れ、川船の船頭や筏(いかだ)乗りの宿があり、さらに千住大橋の北岸にヤッチャバがあって、現金を持った農民が多かったためである。しかし、一番大きな理由は、吉原が武士の客を中心に栄えたため、意地や張りのある女でないと通用せず、客が町人に変っても気位いが高く、農民は敬遠されたので、千住に通ったのである。吉原では、大見世になると芸人をあげず、小見世でも長者でないと相手にせず、まして半纏(はんてん)・股引(ももひき)の客は最低の「チョンチョン格子」か「長屋」でしか遊べなかった。そこで農民たちは三流でもいいから気楽に遊べる所へと通った。当時一流といえば吉原、二流は東海道の品川、甲州街道の新宿、三流は深川の洲崎、東海道の川崎、甲州街道で調布・府中、青梅街道と所沢街道の追分宿田無、中山道で板橋、日光街道でこの千住に小塚原(俗に骨(こつ)と呼ぶ)であった。
この当時の女郎や客の考え方が最もよく現われたものに次の歌詞がある。
〽 ねぎの枯葉のような股引はいて吉原何処よと笑しゃがる(ひやかし節)
当時、千住へは、地元足立区のものはもちろんのこと、江戸川・葛飾両区の人たちまで吉原を通り越して遊んだという。吉原は値が高かったこともあったが、そっけなくされるのが庶民にはカンにさわったのだろう。千住の飯盛女達は、「騒ぎ唄」である「二上り甚句」(俗に角力甚句)を三味線や太鼓に合せ、賑(にぎ)やかに歌い踊っていた。
千住節(盆踊り唄)
〽 ハァー千住出てから/(コラショイ)/巻の野迄は/(コラサ)/竿(さお)も艪舵(ろかじ)も/手にゃつかぬ/(コラショ)
〽 ハァー千住通いは/(コラサ)/止めよとすれど/(コラサ)/おいでおいでの/文が来る/(コラッコラッコラサァ)
〽 ハァー又も関原へ/(コラサ)/御参詣の時は/(コラサ)/お寄り下さい/中田屋へ/(コラッコラッコラサァ)
一方この千住通いの人たちが千住で覚えた「角力甚句」をその行き帰り歌って歩いているうち、やがてテンポの遅い別の唄となっていった。これが「千住節」の「流し」の唄である。
この唄はまたたく間に広がり、「千住節」と呼べばこの唄をさすようになった。また、農家が田植にも田の草取りにも歌うので、この唄を俗に「百姓節」とも呼ぶ。「千住節」全盛の時には、吉原通いや日光街道の草加の宿、水戸方面に通ずる陸前浜街道の松戸の宿などでも「ひやかし節」としてこの「千住節」が歌われ、杉戸近くを流れる江戸川を上り下りする船頭によっても、かなり広く、また遠くまでこの唄は運ばれたようだ。千葉県の「安房節(あわぶし)」や神奈川県の「三崎甚句」は「二上り甚句」から生まれたもので、いずれも「千住節」とは兄弟分であるだけに、多分同じような過程をへて育ってきたのだろう。
千住節(流し唄)
〽 ハァー声はまたすれどもだよ/姿がコリャ見えぬ/藪(やぶ)に鶯(うぐいす)/声ばかり
〽 ハァー千住女郎衆は/木の裏雀/お客目がけて/飛んで出る
千住大橋の下を通る人たちに筏乗(いかだの)りがいた。この人たちが退屈しのぎに筏の上で歌ったのが、筏節で、唄は「千住節」のうちの「流し唄」である。
青梅に住む筏師の話によると、成木川の堰(せき)をとめて水を溜(た)め、水かさが増したところで、堰を外して材木を一気に埼玉の県境まで流す。そこで小さな筏に組み、名栗川に乗り入れ、この筏を何枚か組ませて中型とし、入間川にはいる。川越の近くの的場でまた大きな筏に組みかえ、荒川を下って千住で泊り、翌日は深川の木場に乗りつけたという。
千住節(筏節)
〽 千住女郎と/水欲し鳥は/雨が降らねきゃ/喉(のど)がでる
〽 千住川さえ/竿差しゃ届くット/まして届かぬ/主の胸ット
松平伊豆守は、荒川を江戸と川越を結ぶ重要な水路として、正保四年(一六四七)伊佐沼と新倉河岸を結んだ。以来、米・麦・炭などを積んだ七十石積みの船が、千住大橋をくぐって、浅草から本所あたりの河岸へ往来した。この船が、川越からくるところから、俗に川越船といわれた。
一方浅草、深川あたりから下肥(しもごえ)を積んで、荒川はもちろん江戸川、中川、綾瀬川などを利用して農村地帯に通う「葛西船」とか「肥船」の船頭たちは、遊女にとって金ばなれのいい上客なので、千住大橋の上から手を振って船を止めさせた。川岸に建つ遊廓の二階の女と船頭とが、「千住節」の唄くらべをして、勝った船頭がただで泊ったことがたびたびあったという。
この船頭達が艪を押しながら眠気ざましに歌っていたのが、「千住節」(船頭節)で、「夜下(さが)り節」とも呼んでいた。初期の「船頭節」は「流し唄」と区別はないが、後年「追分」の節廻しが加わった。「川越舟唄」は、この「千住節」(船頭節)のことである。
千住節(船頭節)
〽 サァー千住女郎衆は/コラ錨(いかり)か舫(もやい)か/上り下りの/船止める
〽 サァー千住出てから/コラ巻の野迄は/竿も艪舵も/手につかぬ
〽 サァー行こか板橋/コラ帰ろか馬橋/行って行かれぬ/戸田の橋
〽 ギッギってば朝潮か/朝潮どころか夜下りだい
「千住節」が大流行していた幕末から明治にかけては、関東一円で「小念仏」が流行し、「笠松峠」や「細田の奴(やつこ)」などと呼ぶ芝居もどきの踊りを演じていた。この幕間の手踊りとしての「千住節」に「新保広大寺」の節廻しを加味して歌うようになった。この唄は、「一に中田屋」と歌い始めるところから、『中田屋』と呼ばれて親しまれている。
中田屋
〽 サァー一に中田屋ヨオ/ハァー二に竹吾妻サァーヨイ/三に相模屋で/とどめさす/(アーシッチョイチョイチョイネット)
〽 ハァー惚(ほ)れて通えば/ア千里の道もサァーヨイ/さほど遠いとは/思やせぬ/(アーシッチョイチョイチョイネット)
〽 ハァー来るか来るかと/アー門先見ればサァーヨイ/門の正木(まさき)の/蔭(かげ)ばかり/(アーシッチョイチョイチョイネット)
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この唄に出てくる中田屋・竹吾妻・相模屋はともに千住にあった女郎屋の屋号である。
これほど「千住節」が大流行を極めたので、瞽女も「千住節」が歌えなければ商売にならなかった。
千住節(瞽女節)
〽 アーエ/一に中田屋/(コラサット)/アーエ二に竹吾妻ョ/アー三にや相模屋で/とどめさす</p>
〽 アーイ/いとしお客の/(コラサイ)/アーエ来るのは知れるヨ/(サアサドッコイショット)/アー裏の小池の/鴨が立つ