一茶と炎天寺

846 ~ 847

 小林一茶の『七番日記』に、

「武蔵国竹の塚といふに、蛙たたかひありけるに見にまかる四月二十日なりけり。
  やせ蛙負けるな一茶是にあり」

とある。これは文化十三年(一八一六)、一茶四十八才のときの句で、『七番日記』は文化七年から文化十五年までの日記である。この日記の文化十三年九月の項に

   「蝉鳴くや六月村の炎天寺」

の句も出ている。したがって一茶がこの付近に遊んだことはまちがいない。当時一茶はまだ郷里柏原に安住せず、江戸と柏原とを毎年のように往来していた。そのころ、千住関屋には建部巣兆がおり、この竹ノ塚には竹翁東子がいた。これら文人と一茶が交遊のあったことは明らかである。

 この炎天寺の歴史は古く、天喜四年(一〇五六)ごろ、源頼義、義家父子によって創建されたという。(本寺の由来については伝説の項にくわしい。)

 昭和三十七年十一月二十三日、炎天寺境内に根府川石の高さ二メートルほどの一茶句碑が建てられ、じ来毎年十一月二十三日、地元有志によって「一茶まつり」が行なわれている。

  日洩れては急ぐ落葉や炎天寺    石田波郷

  冬陽なめらか漆黒の句碑いま現るる  楠本憲吉