関屋の里

847 ~ 850

 「関屋の里」というのは、現在の千住関屋付近をいうが、この里の歴史は古い。文治五年(一一八九)、源頼朝が奥州平定後、江戸太郎重長が軍功によって武蔵国の受領(ずりょう)に任ぜられ、奥州方面の防塁として千住に関所を設けたのにはじまる。この「関屋の里」は、葛飾北斉の浮世絵にも描かれ、隅田川八景の一として、江戸近郊の歌枕であった。昭和四十一年の国際文通週間記念切手には、この北斉の関屋の里が覆刻された。また隅田川八景とは、次のようなものである。

  浮島の秋月、関屋の落雁、待乳の晴嵐、綾瀬の帰帆、

  汐入の夕映、梅若の暮雪、洲崎の晩鐘、橋場の夜雨

 江戸時代のこの付近の地勢をよく描いたものに、村尾正靖の『牛田薬師関屋天神手向之尾花』がある。正靖は、周防岩国の人、早くから江戸に住み、江戸近郊の名所旧跡を尋ね、詩歌、絵画、紀行文を書いた。号を嘉陵といい、文政十年(一八二七)、六十七才で没した。この一文は『嘉陵紀行』の中に収められている。

   牛田薬師関屋天神手向之尾花       村尾正靖

 牛田村民戸十二三戸に過ずといへども、家作りつきつきしく、貧成(ひんなる)は見えず、

 千葉山西光寺、本堂南面大日を安置す、其側に薬師堂あり、方三間計東に向ふ寺僧に問ふに、書伝へたるもの何も無故、来歴しれずといへども、千葉介常胤の守本尊也といひ伝ふ、山号を千葉といへばいかさまにも、千葉家の由緒ある寺成べしと云、寺附の地処わづか計あり、人にあづけて作らしむ、真言宗にて、庵室同様の体なりといへども、堂宇門塀に至る迄、壊たる所もなく奇体也、古へ此薬師堂に古法眼元信の画きたる牛の画の額ありしが、洪水の時流失たりとあるのみにて、見しことありしかば(と)、寺僧に問ふに會てしらず、やくしの堂の前後に、大なる松二本あり、就中堂の前の一本は、根より少し上りて、二股に成、梢しげりていとめでたし、此外松猶数多あり、堂のかたはらに碑一基あり、文字読べからず、石出帯刀往来建たる也と云、春は偶尋ねくる人ありとぞ、牛田の堤を西へ千住の方へ行ば、大川の入堀あり、その猶西田の中に小祠有、是を関屋天神と云、方二三間計、上の小高き上に小祠、鳥居もあり、古来よりの祠也といふ、畔の小道をつたひて参る、この頃宿願のことありて、亀戸天満宮にまふづることあり、今日しも廿五日なれば、かしこに参るべきを、さりがたきことにひかれて、千住より此あたりへ来り、はからずも爰(ここ)に詣づるはいか成すぐせにやあらん、亀戸といひ関屋といひ、所ことなりといへども、神はもと同じ心つくしの神也とかたじけなくして

  すみだ河浪のよるべの磯菜をや、心ばかりの手向とはせむ

  しぐれ降枯生の薄それをだにたてなからこそぬさにまつらめ

 正靖按ずるに、是は菅神にてましますや、武蔵の北野天神は物部の天神にましますを、菅神に混してやがてよそにうつし祭り奉るをば、菅神とす、ここの天神と申奉るも、ひたぶる菅神とし奉らんも、覚束なきよう也(嘉陵紀行第二篇)


庵崎(いおざぎ)のすみた河原に日は暮れぬ関屋の里に宿やからまし 藤原光俊

 これは康元元年(一二五六)九月、常陸国鹿島神社に詣でたときの歌で、『夫木和歌抄』に収められている。庵崎というのは、牛田の堤外、荒川、綾瀬川の合流点に丸池があり、それから西の方、関屋の里にいたる地方の俗称であった。

我がために結びもおかぬ庵崎の隅田河原に宿やからまし  尚長

今宵また誰(た)が宿からむ庵崎のすみだ河原に秋の月影  順徳院

帰るさの道に関屋の里もあれな隅田河原のあかぬながめに 道晃法親王


つまずとも愛に関屋の若菜かな 大島蓼太

雁が鳴く君が四阿関屋かな   加舎白雄

夜をこめて関屋にさむし雉子の声 加藤暁台

野分にも関屋のよしの片葉哉  建部巣兆

籠さげて若菜つみつみ関屋まで 正岡子規

朝露の槍の柄つた関屋かな   同

大木に関屋の秋の入日かな   高浜虚子