川柳抄

853 ~ 855

 千住の風物は、川柳に多くよまれている。


   伽羅(きゃら)よりもまさる千住の槇(まき)の杭(くい) (川柳江戸砂子)

 荒川は大雨となると水勢が増す。大橋を支える槇の杭は、千住の住民にとって名木伽羅よりも大切である。


   綱曳や左の利(きき)し大男 (東都歳事記)

 文禄三年から宝暦年間まで、(一五九四-一七六三)小塚原鎮守牛頭天王の祭礼の節、つまり六月八日の夜、千住大橋の上で綱引の神事が行なわれた。その時のスケッチである。


   問屋場で竹に雀は気をいため(古川柳)

 竹に雀は仙台伊達家の紋所、道中筋では最高の六十二万石であったから、宿場でもいろいろ気を使ったことであろう。


   初夢を大師の連れに判じさせ(柳樽初篇)

 四十二の厄は川崎、二十五の厄は西新井ときいた。恵方と厄除けを兼ねて大師に詣る若い二人であろうか。


   寒念仏千住の文をことずかる(柳樽初篇)

 寒念仏の講中は、遠く千住へもやって来る。「これ、深川へとどけてください」などと、店先で手紙を託されたのである。


   鵜(う)の真似(まね)をするは千住の水鳥記(川柳辞典)

 著名な千住酒合戦の句である。一飲一升あるいは二升といわれ、その最も大きな丹頂鶴盃は三升(約五・四一リットル)はいったという。


   千住品川むらさきのたもとなり(川柳辞典)

 千住、品川の宿場に、飯盛の名で遊女がおかれたのは宝暦三年(一七五三)からである。当時吉原の遊女がむらさきの着物を着ていたのに対し、この両所ではたもとだけをむらさきに染めていた。

   千住から馬にしようと惣太いい(川柳辞典)

 梅若の故事。京都公家の子息梅若丸は、人買にさらわれ関東に下ったが、病気になり、隅田川畔に置き捨てにされた。「たづね来てとはばこたえよ都鳥、すみだの河原の露と消えぬと」時に十二才であった。惣太(伝では藤太)とはその人買の名であろう。

   材木屋めがと千住へみんな行き(川柳辞典)

 材木で大もうけした紀国屋文左衛門が、吉原で総上げをしたので、一般の遊客がしめ出され、千住にまで遠征したところ。


   千住川吉野の通る寒いこと (川柳辞典)

 千住川とは隅田川のこと、夏季にはこの辺りまで納涼船がやって来たが、冬季になると大根を積んだ舟が通る。吉野とは練馬大根のことである。


   すけんさんそれじゃ千住とわらはれる(柳樽十四篇)

 すけんさんは素見参、ひやかしのこと。千住の先きは草加、つまり千住は田舎者の意に用いられた。