千住の風物は、川柳に多くよまれている。
伽羅(きゃら)よりもまさる千住の槇(まき)の杭(くい) (川柳江戸砂子)
荒川は大雨となると水勢が増す。大橋を支える槇の杭は、千住の住民にとって名木伽羅よりも大切である。
綱曳や左の利(きき)し大男 (東都歳事記)
文禄三年から宝暦年間まで、(一五九四-一七六三)小塚原鎮守牛頭天王の祭礼の節、つまり六月八日の夜、千住大橋の上で綱引の神事が行なわれた。その時のスケッチである。
問屋場で竹に雀は気をいため(古川柳)
竹に雀は仙台伊達家の紋所、道中筋では最高の六十二万石であったから、宿場でもいろいろ気を使ったことであろう。
初夢を大師の連れに判じさせ(柳樽初篇)
四十二の厄は川崎、二十五の厄は西新井ときいた。恵方と厄除けを兼ねて大師に詣る若い二人であろうか。
寒念仏千住の文をことずかる(柳樽初篇)
寒念仏の講中は、遠く千住へもやって来る。「これ、深川へとどけてください」などと、店先で手紙を託されたのである。
鵜(う)の真似(まね)をするは千住の水鳥記(川柳辞典)
著名な千住酒合戦の句である。一飲一升あるいは二升といわれ、その最も大きな丹頂鶴盃は三升(約五・四一リットル)はいったという。
千住品川むらさきのたもとなり(川柳辞典)
千住、品川の宿場に、飯盛の名で遊女がおかれたのは宝暦三年(一七五三)からである。当時吉原の遊女がむらさきの着物を着ていたのに対し、この両所ではたもとだけをむらさきに染めていた。
千住から馬にしようと惣太いい(川柳辞典)
梅若の故事。京都公家の子息梅若丸は、人買にさらわれ関東に下ったが、病気になり、隅田川畔に置き捨てにされた。「たづね来てとはばこたえよ都鳥、すみだの河原の露と消えぬと」時に十二才であった。惣太(伝では藤太)とはその人買の名であろう。
材木屋めがと千住へみんな行き(川柳辞典)
材木で大もうけした紀国屋文左衛門が、吉原で総上げをしたので、一般の遊客がしめ出され、千住にまで遠征したところ。
千住川吉野の通る寒いこと (川柳辞典)
千住川とは隅田川のこと、夏季にはこの辺りまで納涼船がやって来たが、冬季になると大根を積んだ舟が通る。吉野とは練馬大根のことである。
すけんさんそれじゃ千住とわらはれる(柳樽十四篇)
すけんさんは素見参、ひやかしのこと。千住の先きは草加、つまり千住は田舎者の意に用いられた。