鷗外の父、森静男は明治十二年六月十七日から、当時の千住宿北組、今の千住一丁目七二番地に医院橘井堂を開業した。そのころの状況については、鷗外の妹、小金井喜美子の「千住の家」にくわしい。
中組を北へ通り過ぎると短い橋が懸ってゐるのを人は小橋と呼んでゐる。大橋に対しての名と見える。それからが千住北組である。
其北組は五丁に分かれてゐて、一丁目毎の界に三間幅位な小路が突き抜けてゐる。藤子(筆者の仮名)の家は一丁目の東裏であった。昔の奥州街道なので、道幅もかなり広く、一丁目辺には、見苦しくない商家が軒を並べてゐる。町の深さは二十間程であらうか。小路を這入って厭になる程行くと、門に突き当る。黒板塀で取り廻した屋敷であった。
もとは然るべき人の住んだ家と見えて、古びてはゐるが、建物がしっかりしてゐて、平家ながらに屋根が高く、天井の上に物を置くやうになってゐた。建物も余程有るが、診療所、待合室、薬局、書生部屋、車夫部屋と取ってしまっては、住ひの方が割合に狭くなってゐた。(中略)
庭はあるが樹木は少かった。お父う様のお好きな大小種種な植木鉢を、段の上に拵へて並べてから大分賑やかになった。裏は深い堀で、刎橋を下して出ると、向うに藁葺の百姓家が五六軒ある。その先は綾瀬の方迄見渡される田圃であった。(以下省略)
鷗外は大学在学中は、本郷の寄宿舎や竜岡町の下宿に住み、土曜から日曜にかけて、この千住の家に帰った。
大学卒業後、しばらく家業を手伝ったが、やがて陸軍の軍医補となり、ついで明治十七年六月官費生としてドイツに留学した。明治二十一年九月、晴れの帰朝後、しばらく父母のもとに暮らしたが、明治二十二年、赤松則良の長女登志子と結婚、千住の家を出た。はじめ下谷区根岸金杉に新居を構え、のち上野花園町の赤松氏の持ち家に移った。じ来千住の父母の家に住むことはなかった。
鷗外がこれらの誼(よし)みから、「大正記念道碑」に執筆した碑文は、旧跡の部に挙げてある。
なお千住仲町の源長寺に、鷗外とゆかりの深かったという「児玉せき」の墓碑があるが、今はそれの指摘にとどめておく。