水の東京 幸田露伴

862 ~ 865

―前略―

○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは隅田(すだ)を流るゝを以て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり。水源は秋の日など隅田堤より遠く西の方に青み渡りて見ゆる秩父郡の山々の間にて、大滝村といへるが此川の最上流に位する人里なれば、それより奥は詳しく知れねど、おもふに甲斐境の高山幽谷より出で来るなるべし。水源地附近のありさまは予が著はしし秩父紀行ならびに新編武蔵風土記等を読みて知るべし。

 荒川の東京に近づくは、豊島の渡あたりよりなり。

○豊島の渡は荒川の川口の方より幾屈折して流れ来りて豊島村と宮城村との間を過ぐる処にあり。豊島村の方より渡りて行く事僅少にして荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの眺望好き向島堤の続きにして、千住駅を歴て此処に至り、猶遠く川上の北側に連なるものなり、豊島の渡より川は却て西南に向って流れて軈(やが)て、

○石神(しゃくじ)川を収めて又東に向って去る。石神川は秋の日の遊びどころとして、錦繡の眺め、人をして車を停めて坐に愛せしむる滝の川村の流れなり。水上は旧石神井村三宝寺の池なれば、正しくは石神井川といふべし。此川舟楫の利便は具へざれども、滝の川村金剛寺の下を流れて後、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。古昔は水の清かりしをもて人の便とするところとなりて、住むもの自ら多かりけむ、此川筋には古き器物を出すこと多し。石神井明神の神体たる石劒の如きも其の一なり。

○尾久(おぐ)の渡は荒川小台村と尾久村との間を流るゝ処にあり。此の辺りは荒川西より東に流れて、北の岸は卑湿の地なるまゝいと荒れたれば、自然の趣きありて、初夏の新芦栄ゆる頃、晩秋の風の音に力入りて聞ゆる折などは、川面の眺めいとをかしく、花紅葉のほかの好き風情あり。鱸其他の川魚を漁する人の、豊島の渡より此処の渡にかけて千住辺り迄の間に小舟を泛めて遊ぶも少からず。蚊さへ無くば夏の夕の月あかき時なんどは特に川中に一杯を酌みて袂に余る涼風に快なる哉を叫ぶべき価ある処なりといふ。川は尾久の渡より下二十町ほどにして又一転折して千住製紙所の前を東に流る。一たび製紙所に入りて直に又本流に合する一渠あり。製紙所前を流れて、やがて大橋に至る。

○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて、人馬の往来絶ゆること無し。大橋より川上は小蒸気船の往来無くして、たゞ川船、伝馬、荷足、小舟の類の帆を張り艪櫂を使ひて上下するのみなれば、閑静の趣を愛して、夏の日の暑熱を川風に忘れんとするの人等は、大橋以西、製紙所の上、川の南西側に榛の樹立の連なれるあたりの樹蔭に船を纜ひて遊ぶが多し。橋の上下少の間は両岸とも材木問屋多ければ、筏の岸に繋がれぬ日も無し。およそ此処の橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無く、石炭の姻、機関の響、いと勇ましくも忙はしく、浮世の人を載せ去り載せ来るなり。橋より下の方、東に向って川の流ゝること少許にして汽車のための鉄橋の下を過ぎ、右に、

○塩入村の茅舎竹籬を見、左に蘆葭の茂れるを見ながら一折して終に南に向って去る。此あたりは河水東西に流れて両岸の地もまた幽寂空疎なれば、三秋月を賞するのところとしても最も可なり。およそ月を観て興を惹くは、山に於けるより水に於けるを勝れりとす。月東山を離るといふの旬は詞客の套語となれりと雖も、実は水に近き楼台の先づ清輝を看るを得るの多趣なるに如かず。又止水に於けるは流水に於けるの多趣なるに如かず。池をめぐりて夜もすがらといふの情も妙ならざるにはあらざれど、川上と此川下や月の友といふの景のおもしろさには及ぶべからず。(中略)古より文人墨客の輩綾瀬以上に遡らずして、たまたまかゝる地あるを知らざりしかば、詩文に載せられて世に現るること無く以て、今日に至りしなん。

○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、呉春なんどの画を見る如く、淡き風景の中に詩趣乏しからず。

○綾瀬川は荒川の一転折して南に向って流るゝところにて東より来つて会する一渠の名なり。幅は濶からねども船を通すべく、眺めも是といふところは無けれども亦棄て難き節無きにあらず。其上流は小菅より浮塚に至りて、猶遠く荒川より出で、ここにて復荒川の下流の隅田川の方より綾瀬橋といへる千住道にかゝれる橋あたりを望めば、一水遠く東に入りて景色おのづから小幀の画を為す。

○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに前栽の訛にして、往時御前栽畑ありし地なりしを以てなるべし。

○鐘が淵は紡績会社の地先にして隅田綾瀬の二水相会するところの稍下の方を云ふ。往時普門院といふ寺の鐘此の淵に沈みたれば此名ありとは江戸名所図会にも載せたる伝説ながら、蓋し恐らくは信ずるに足らざるの誤ならん。凡そ鐘が淵と名づくるの深潭諸国に甚だ多し、皆必ずしも梵鐘の沈むの故を以てのみ名づけんや。予の考をもてすれば鐘が淵が曲尺(かね)が淵にて、川の形曲尺(まがりかね)の如く曲折するによりて呼びたる名なりと判ず、こは諸所の同じ名を負へるところの地形を考へて悟るべく、猶又明かに曲り金と称ふる地名の川沿の地に多く存するをも併せ考うべし。

○関屋の里は定めてこれと指すべきところ無し。鐘が淵附近の地一帯を云ふにや、近き人の著しゝ隅田川叢誌には隅田川辺なる村里の総称なりといへり。鐘が淵の下にまた大川より東に入る渠あり、奥行いと浅けれど紡績会社のために漕運の便を与ふること少からず。(後略)

(『蝸牛庵夜譚』より)