放水路 永井荷風

866 ~ 869

 放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻(ろてき)と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢はぬことである。平素市中の百貨店や停車場などで、疲れもせず我先きにと先を争ってゐる喧騒な優越人種に逢はぬことである。夏になると、水泳場また貸ボート屋が建てられる処もあるが、然しそれは橋のかゝってゐるあたりに限られ、橋に遠い堤防には祭日の午後といへども、滅多に散歩の人影なく、唯名も知れぬ野禽の声を聞くばかりである。

 堤防は四ツ木の辺から下流になると、両岸に各一条、中間にまた一条、合せて三条ある。わたくしはいつも此中間の堤防を歩く。

 中間の堤防は其左右ともに水が流れてゐて、遠く両側の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかゝるころには朦朧とした水蒸気に包まれてしまふので、こゝに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫(あし)音を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成れの果だといふやうな心持になる。

 四五年来、わたくしが郊外を散行するのは、曾て『日和下駄』の一書を著した時のやうに、市街河川の美観を論述するのでもなく、又寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来してゐる感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉(るしゃ)にしたいためである。その何が故に、又何がためであるかは、問詰められても答へたくない。唯をりをり寂莫を追求して止まない一種の慾望を禁じ得ないのだと云ふより外はない。

 この目的のためには市中に於て放水路の無人境ほど適当した処はない。絶間なき秩父おろしに草も木も一方に傾き倒れてゐる戸田橋の両岸の如きは、放水路の風景の中その最荒涼たるものであらう。

 戸田橋から水流に従って北方の堤を行くと、一二里にして新荒川橋に達する。堤の下の河原に朱塗の寺院が欝然(うつぜん)たる松林の間に、青い銅瓦の屋根を聳(そびや)かしてゐる。この処は、北は川口町、南は赤羽の町が近いので、橋上には自転車と自動車の往復が烈しく、わたくしの散策には適してゐない。放水路の水と荒川の本流とは新荒川橋下の水門を境にして、各堤防を異にし、或は遠くなり或は近くなりして共に東に向って流れ、江北橋の南に至って再び接近してゐる。

 堤の南は尾久から田端につゞく陋巷(ろうこう)であるが、北岸の堤に沿うては隴畝(ろうほ)と水田が残ってゐて、茅葺の農家や、生垣のうつくしい古寺が、竹藪や雑木林の間に散在してゐる。梅や桃の花がいかにも田舎らしい趣を失はず、能くあたりの風景に調和して見えるのは此のあたりである。小笹(おざさ)に蔽はれた道端に、幹の裂けた桜の老樹が二三株づつ離れ離れに立ってゐる。わたくしが或日偶然、六阿弥陀詣の旧道の一部に行当って、たしかにそれと心付いたのは、この枯れかゝった桜の樹齢を考へた後、静に曾遊の記憶を呼返した故であった。

 江北橋の北詰には川口と北千住の間を往復する乗合自動車と、また西新井の大師と王子の間を往復する乗合自動車とが互に行き交(ちが)ってゐる。六阿弥陀と大師堂へ行く道しるべの古い石が残っててゐる。葭簀(よしず)張りの休茶屋もある。千住へ行く乗合自動車は北側の堤防の二段になった下なる道を走って行く。道は時々低く堤を下って、用水の流に沿ひ、又農家の垣外を過ぎて旧道に合してゐる。ところどころ桜の若木が植ゑ付けられてゐる。やがて西新井橋に近付くに従って、旧道は再び放水路堤防の道と合し、橋際に至って全く其所在を失ってしまふ。

 西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであらうか。こゝに水門が築かれて、放水路の水は、短い堀割によって隅田川に通じてゐる。

 わたくしはこの堀割が綾瀬川の名残りではないかと思ってゐる。堀切橋の東岸には菖蒲園の広告が立ってゐるからである。下流には近く四ツ木橋の橋が見え、荷車や自動車の往復は橋ごとに烈しくなる。四ツ木橋から下流にかけられた小松川橋に至る間に、中川の旧流が二分せられ、其一は放水路に入り更に西岸の堤防から外に出てゐるが、其一は堤を異にして放水路と並行して南下してゐるのに出逢ふ。

 市川の町へ行く汽車の鉄橋を越すと、小松川の橋は目の前に横たはってゐる。小松川の橋に来て、其欄干に倚(よ)ると、船堀の橋と行徳川の水門の塔が見える。この水門の景は既に之をしるした。水門から最終の葛西橋まで其距離は一里を越えてはゐないであらう。(昭和十一年四月)

(永井荷風著『おもかげ」昭和十三年岩波書店刊より)